充電池のラジオと、父のひょっこり

──平成0x29A年11月30日 19:10

平成0x29A年11月30日、19時10分。
窓口の外はもうすっかり闇に包まれている。
自動ドアの向こうを行き交うドローン配達の赤い光だけが、妙に鮮やかだった。

「次の申請者、お呼び出しください」

耳元のインプラントから、代理エージェントの無機質な声が響く。
僕のエージェントである父、吾郎は、先週から法定倫理検査に入っている。
享年58で過労死した父は、生前も公務員で、僕が窓口業務で困ると、実務的なアドバイスをくれた。
でも、この代理エージェントは違う。ただマニュアルを読み上げるだけで、まるで感情がない。
父がいない一週間は、まるで心の片隅に穴が開いたような気がした。

番号が呼ばれ、初老の男性が歩み寄ってくる。
「あの、これ、ポイントカードで割引になるんでしょうか?」
彼はしわくちゃになった紙のポイントカードを差し出した。
「恐れ入ります、こちらは弊センターではご利用いただけません」
代理エージェントが即座に回答を生成し、僕の口から出る。
まったく融通が利かない。

今日の夕食は、休憩室で合成食品プリントの牛丼風味を食べる。
肉の繊維まで再現されているが、なぜか少し金属っぽい匂いがする。
昔、父が作ってくれた本物の牛丼とは全く別物だ。
食後、僕はリュックから年代物の携帯ラジオを取り出した。
充電式NiMHバッテリーの残量を確認し、周波数を合わせる。
砂嵐の向こうから、平成初期のJ-POPが微かに聞こえてくる。
この混線した文化の断片だけが、唯一の慰めだった。

20時を過ぎ、窓口に女性が一人、駆け込んできた。
「すみません、この公園遊具の改修リクエスト、まだ承認されてないみたいで……」
彼女は顔認証で本人確認を済ませ、ディスプレイに「差分断片」を表示させた。
旧港区エリア第3公園の滑り台の老朽化による改修計画。
「党ドクトリンアルゴリズムによる署名が不足していますね」
僕はディスプレイの情報を読み上げる。承認まであと数ステップ。

「この案件は、過去の類似事例から見ても、地域住民の安全に直結するため、優先度が高く設定されるべきです。党ドクトリンの解読結果によれば――」
代理エージェントがそう言いかけた、その時。

『早瀬健二様。
緊急事態発生により、第0x87A1F内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。
現在より5分間、閣議決定権限が付与されます。
閣議議題:旧港区エリア第3公園遊具改修リクエストの最終承認。
署名アルゴリズム:第402ヘゲモニー期、党ドクトリンに基づく暗号化認証。』

耳元のインプラントから、代理エージェントとは違う、高揚した機械音声が響き渡った。
え、僕が? 内閣総理大臣? 5分間?

目の前のディスプレイが突然、政策変更リクエストの最終承認画面に切り替わる。
画面には、承認に必要な「党ドクトリンアルゴリズム署名」を求める表示が。

「健二! ここは『安全保障に係る地方財源配分最適化』のドクトリンコードを参照するんだ! その上で『緊急性と公共性』のサブコードを入れれば通る!」

聞き慣れた声が、インプラントから飛び込んできた。
父だ! 父のエージェントの声だ!

「お父さん! 倫理検査は!? なんでここに!?」

「うるさい! 今はそんなことより署名だ! 倫理検査は緊急避難措置で一時中断になっただけだ! まったく、肝心な時に俺がいないんだから!」

父は興奮した様子で矢継ぎ早に指示を出す。
「えーと、コードは……」
僕は言われるがままにキーボードを叩き、署名を完了させた。

『第0x87A1F内閣ユニット、閣議決定が承認されました。
内閣総理大臣、早瀬健二様の任期は終了しました。』

「やれやれ、綱渡りだな。健二、お前ももっとしっかりしないと。党のドクトリンは一筋縄じゃいかないんだぞ」
父の声が、僕のインプラントから聞こえてくる。
目の前の女性は、ディスプレイに「承認済み」の表示を見て、驚きと感謝の入り混じった顔で立ち尽くしている。

「お父さん、倫理検査は?」

「ん? ああ、また戻るよ。どうやら俺のエージェントデータの中に、今回の『緊急内閣総理大臣サポート』に必要な特定のコードが残っていたらしくてな。倫理検査官が『これはデータ汚染の可能性もあるが、社会安定に寄与したため良し』だとさ。まったく、ふざけた連中だよな」

父はそう言って、からからと笑った。
どうやら、僕が5分間総理大臣になったことで、父は倫理検査を「ひょっこり」と飛び出してきたらしい。
そしてまた、何食わぬ顔で戻っていくのだろう。
いつもの冷静な父からは想像もつかない、どこか滑稽な一幕だった。
でも、その声は、無機質な代理エージェントより、ずっと僕の胸に響いた。

目の前の女性に、僕は笑顔で言った。「承認されました。滑り台、直りますよ」
平成0x29A年11月30日 19:15。僕の短い総理大臣期間は、父の奇妙な復帰劇とともに幕を閉じた。
そして、僕のポケットの携帯ラジオから、また少し音量を上げたJ-POPが流れていた。