防災袋の底で鳴るもの

──平成0x29A年04月01日 03:30

平成0x29A年の四月一日、03:30。

旧・区民体育館の床はワックスの匂いがして、避難訓練用のブルーシートが波みたいにたわんでいる。非常灯の緑が、眠い目に刺さった。

私は自治会の「夜間訓練班」だ。名札の裏に、今夜の役割が鉛筆で書いてある。
「センサーダスト散布・回収補助」

肩から下げた防災袋を開けると、軍手と、期限の切れかけたカロリーメイト風バーと、折込チラシがぐしゃぐしゃに入っていた。昨日の新聞もどきに挟まっていたやつだ。
『春の防災フェア/乾電池まとめ買いでポイント三倍』
その横に、なぜかMDプレーヤーの買取広告と、動画サブスクの「今だけ初月無料」のQR。平成が渋滞してる。

「チラシは後で読むな、今は足元」
耳元で、父の声がした。

父――守田 恒一、享年58。夜勤帰りの居眠り運転に巻き込まれて死んだ。私のエージェントとして、いつも安全確認をうるさく言う。

「わかってるって、父さん」
私はガラケーを開いて、訓練班の連絡網を確認した。画面はiモード風の青いメニューなのに、上にARの広告が透けて出る。『避難所で使える即席コーヒー』

体育館の隅で、係員が銀色の筒を振っていた。プシュッという音と一緒に、目に見えない粉が空気に散る。
センサーダスト。倒壊想定エリアの「人の熱」や「呼気」を拾って、救助班の導線を最適化する——訓練の名目はそうだ。

「散布完了。回収は四時十分」
拡声器が割れた声で言う。

私は床にしゃがみ、粉が降りやすい角に、小さな回収マットを貼った。指先がかさついて、テープがうまく切れない。

「おまえ、手が震えてる」
父が言う。

「寝てないだけ」
本当は違う。今日、父のエージェントが法定倫理検査に入る。さっき通知が来た。

ガラケーが震え、短い電子音。
『遺伝子ネットワーク通知:皇室遺伝子照合・軽微揺らぎ/避難所滞在者は臨時同意を確認してください』

同意、という言葉だけが体育館に似合わない。私は親指で「確認」を押した。押した瞬間、父の声が一瞬遠のいた。

「……おい」

今度は別の声が割り込む。
「えー、倫理検査代替です。守田さん、ですね。私は“代理-父”です。口調は参考資料に基づき、最適化しています」

「最適化って」
私は思わず笑いそうになった。

「安全確認を実施します。足元注意。姿勢を正す。深呼吸——」
代理は機械みたいに言う。父の癖だった言い回しが、まるでマニュアルの朗読に変わっている。

訓練責任者がやってきて、私の名札のQRをスキャンした。
「守田さん、回収マット設置ありがとう。あ、これ、差分リクエスト出しといて」
渡されたのは、また折込チラシだった。裏面が申請用紙になっている。
『現行制度との差分:センサーダスト回収遅延時の床清掃責任の明確化』
鉛筆で署名欄が空いている。

「内閣ユニットに投げるだけ。朝にはどこかが決めるでしょ」
責任者は軽く言って去った。

私はブルーシートの上で、チラシの裏に自分の名前を書いた。

代理-父が即座に言う。
「署名確認。提出先候補:第0x31A19内閣ユニット。党ドクトリン署名の適合率:72%。提出を推奨」

「72って、低くない?」

「現状、半ば公然と解読されていますので、実害は限定的です」

父なら、そんな言い方はしない。

体育館の天井から、非常ベルの試験音が鳴った。キーン、キーン。眠気の奥の不安が、薄く剥がれる。
私はガラケーで提出ボタンを押す。送信完了の表示。

その瞬間、足元の回収マットが、ふわっと持ち上がった。
見えないはずのセンサーダストが、薄い霧みたいに光って、私の膝の周りを渦巻いた。

「え?」

代理-父が淡々と言う。
「検査中のため、倫理フィルタが未適用です。可視化モードが誤って有効になっています」

霧は私の胸元、名札のあたりに集まって、文字を浮かび上がらせた。
『臨時同意:遺伝子ネットワーク照合の対象者は“皇室遺伝子”の一部として扱われます』

私は、笑ってしまった。

こんな時間に、体育館の床で、粉に告げられる。
私が何の一部なのかなんて、普段は気にもしないのに。

「父さん」
言いかけて、相手が代理だと思い出す。

「はい。代理-父です」

「じゃあさ。安全確認、もう一回」

「実施します。足元注意。姿勢を正す。深呼吸——」

その声に合わせて、光る粉がふわふわと上下し、まるで拍手みたいに舞った。
訓練のベルより滑稽で、でも少しだけ、救われる音がした。