畝の端で、フラッシュが光る

──平成0x29A年09月29日 22:40

平成0x29A年09月29日、22:40。

夜のハウスは、昼より音がはっきりする。養液の循環ポンプ、ビニールが冷えて鳴る軋み、遠くで自律警備ドローンのプロペラが「一定」を刻む。

私は第31食料ブロックの端っこ、共同圃場の番人みたいな仕事をしている。名札には「小野寺 里央」。でも今夜は、それが少し頼りない。

腰のポーチには、芯の減ったシャーペンと手書き領収書の束。タブレットでも切れるのに、収穫後の現場は紙がいちばん速い。湿気でインクがにじむのも、もう慣れた。

「里央、温度は落としすぎるな」
耳の内側で、父が言う。父――小野寺 恒一。七年前に心臓で死んで、今は私のエージェントだ。

「わかってる。……倫理検査、まだ?」

「延期だ。順番待ちが詰まっている」
淡々とした声。父は几帳面で、こういう夜に強い。

通路の端、結露の向こうにドローンが浮かぶ。黒い球体に白い菊の点描。いちおうの“目印”らしいけど、誰も気にしない。センサーが畝をなぞり、私の腕章を読みに来る。

腕章のICは、昼に交換したばかりだ。割れて、3Dプリント部品で留め具だけ作り直した。白い樹脂の質感が安っぽくて嫌だったが、締まっていれば仕事はできる。

ドローンが近づく。ライトが一瞬、顔をなめる。

《照合:小野寺 里央》
《権限:第31食料ブロック/夜間収穫担当》

表示が出た次の瞬間、文字が滲むみたいに変わった。

《照合:小野寺 恒一》
《権限:第0x8A1F3内閣ユニット/内閣総理大臣(残り 04:58)》

息が詰まった。

「……は?」

父が、私の耳の中で笑いもしない。
「落ち着け。おそらく誤照合だ。腕章の留め具、導体がズレたか」

誤照合。ここでは致命傷になりうる言葉だ。
ドローンが私の前で停止し、機械的に告げる。

《閣議差分断片:食料流通“夜間優先枠”の取消》
《署名要求:党ドクトリン準拠アルゴリズム》

差分断片。つまり、誰かが“いまの制度”から少しだけずらしたい提案。
それを承認する鍵が、いま私にぶら下がっている。

私は反射で、胸ポケットの古いガラケーを開いた。画面はiモードみたいな縦長メニューで、しかし上にARの小さな吹き出しが重なる。「月額・畝見守りサブスク更新」の広告。時代が混線しているのを、現場はいつも笑わずに受け入れている。

父が言う。
「署名はするな。だが拒否も危うい。党の署名は今どき誰でも真似できると言う者もいる。君が触れば痕が残る」

ドローンのライトが強くなる。
《応答まで 20秒》

私は手を上げた。
「待って。現場記録、撮る」

棚の上から、使い捨てカメラを取り出す。平成エミュの備品箱に混じって、なぜか毎年補充される。フィルムを巻き上げる音が、夜のハウスに妙に大きい。

ドローンが警告音を鳴らす。
《撮影は権限外》

「権限外って言っても、今は総理なんでしょ」
口にして、変な感じがした。私の喉から出たのに、父の名前が先に立つ。

シャッターを切る。
フラッシュが畝の葉を白く焼いて、結露の粒が一斉に光る。

次に、手書き領収書を膝の上で広げた。伝票の上端には「第31食料ブロック共同圃場」。
私は震える手で、こう書いた。

『臨時対応費 自律警備ドローン照合異常 確認作業一式』
金額は適当だ。必要なのは、紙の上に残る“私の字”。

父が低く言う。
「いい。書け。あとで監査が来ても、君が現場として動いた証になる」

ドローンは私の文字を読むように沈黙した。センサーが紙面をなぞる。

《領収書:受理》
《照合再試行》

腕章の留め具に触れた。3Dプリント部品の角が指に引っかかる。ほんの少し捻ると、内部の接点が戻る感触がした。

《照合:小野寺 里央》
《権限:第31食料ブロック》

ライトが弱まる。

《差分断片:内閣ユニットへ転送》
《当該端末:権限外》

ドローンは何事もなかったように、通路の先へ滑っていった。

私は畝の端にしゃがみ、使い捨てカメラを握ったまま、しばらく動けなかった。フィルムの中に、今のフラッシュの白が焼き付いている。

「五分、終わった?」

父が答える。
「終わった。君は何もしていない。私は……何もできなかった」

その言い方が、少しだけ人間らしく聞こえた。

外の闇で、別のドローンが旋回している音がする。畑の上空を、黙々と。

私は立ち上がり、領収書を束に戻した。

「じゃあ、収穫の続きする」

父は「そうしろ」と言う。

畝の葉を手で持ち上げると、冷えた匂いが立つ。ここで育つものは、明日の食卓に乗る。誰が総理だったかなんて、たぶんどこにも残らない。

ただ、現像してみたら――フラッシュの中に、私の顔じゃなく父の顔が写っていたとしても。

私は驚かないと思う。