量子の鍵穴、忘れたパスワード
──平成0x29A年07月30日 11:20
俺の机の引き出しには、MOディスクが三枚入っている。
一枚目は去年の夏、二枚目は春、三枚目は今朝焼いたばかりだ。全部、同じデータのはずなんだが、量子乱数ロックの鍵が微妙に違う。パスワード管理を怠った俺が悪い。
「洋介さん、また忘れたんですか」
声が耳元で響く。姉さんだ。享年三十二。研究所の事故で亡くなって、もう七年になる。俺のエージェントは、生前と同じように呆れた口調で喋る。
「忘れてないよ。たぶん、『sakura2024』か『lab_entry_09』か……」
「去年の倫理検査のとき、代理エージェントに全部更新させたでしょう。私、その間いなかったから知りませんよ」
ああ、そうだった。
旧厚木エリアの記憶補助システム開発ラボ。俺の肩書きは「主任技術員」だが、実態は雑用係だ。新人が設計した記憶補助デバイスのプロトタイプをテストし、不具合を洗い出す。地味だが、誰かがやらなきゃいけない仕事だ。
今日の案件は、ファミコンカセット型の記憶補助端末。見た目は完全にレトロゲームのそれで、差し込み口に息を吹きかけたくなる。平成エミュの影響で、こういうデザインが「親しみやすい」とされている。
だが、中身は最新の量子暗号化メモリだ。記憶のバックアップを取り、必要なときに脳内エージェントと同期させる。便利なんだが、セキュリティが厳しすぎて、俺みたいにパスワードを忘れると詰む。
「洋介さん、そのMOディスク、もう読めないんじゃないですか」
姉さんの声が冷静すぎて、少し腹が立つ。
「読めるよ。ドライブはまだ動く」
机の隅に置いた外付けMOドライブを引っ張り出す。USB接続部分がゆるくて、ケーブルを押さえながらでないと認識しない。平成の遺物だ。
ディスクを挿入し、パスワードを試す。
『sakura2024』——エラー。
『lab_entry_09』——エラー。
「ほら、ダメじゃないですか」
「うるさい」
三枚目のディスクには、昨夜のログが入っている。ファミコンカセット端末のテスト結果と、生成AI校正をかけた報告書だ。これを今日の午後までに提出しないと、開発スケジュールが遅れる。
だが、量子乱数ロックの鍵が思い出せない。
「姉さん、ヒントくれよ」
「私、その間いなかったって言ったでしょう」
そうだった。去年の倫理検査中、姉さんのエージェントは一時停止されていた。代わりに割り当てられた代理エージェントは、事務的で無愛想で、俺の冗談に一切笑わなかった。
あのとき、俺は何を考えてパスワードを設定したんだろう。
ふと、ファミコンカセット端末に目が行く。差し込み口に、小さなシールが貼ってある。手書きで「test_0730」と書いてあった。
試しに、三枚目のMOディスクに『test_0730』と入力する。
ロックが解除された。
「……やった」
「偶然ですね」
姉さんの声が、少しだけ笑っている気がした。
ディスクの中身を開く。テスト結果と報告書が、きちんと整理されている。生成AI校正のログも残っていた。問題ない。
だが、ファイルの最後に、見覚えのないテキストがあった。
『記憶補助の更新を怠るな。忘れたものは、取り戻せない』
俺が書いた覚えはない。代理エージェントが残したメッセージだろうか。
「洋介さん、私の更新、いつするんですか」
姉さんの声が、いつもより少し近い。
「……来月には」
「去年も同じこと言ってましたよ」
返す言葉がなかった。
ファミコンカセット端末を手に取る。記憶補助の最新型。俺が忘れたものを、これは覚えていてくれるだろうか。
それとも、俺が忘れたいものまで、しつこく思い出させるんだろうか。
「姉さん、俺、ちゃんと覚えてるよ」
「何をですか」
「姉さんが、いつも俺のこと心配してくれたこと」
沈黙。
それから、小さく笑う声。
「それ、私じゃなくて代理エージェントの記憶じゃないですか」
違う、と言いたかったが、自信がなかった。