露光する署名、あるいは直立するキュウリ

──平成0x29A年03月15日 15:10

三月十五日、午後三時十分。農業プラント第三層の湿度は、常に九〇パーセントに保たれている。

「おい、光量パラメータがブレてるぞ。昔の太陽はもっと容赦なかった」

右耳のインカムから、親父の声が響く。死んで五年になるが、この頑固な農夫のエージェントは、気象制御AIの仕事にケチをつけるのが日課だ。私は作業着のポケットから、分厚い「ガラケー型端末」を取り出した。ボタンを押す感触が指に沈む。

パカ、と開いた画面から、粒子状のホログラムが空中に投影される。トマトの生育状況を示すグラフが、湿った空気の中でぼんやりと浮いた。第402ヘゲモニー期の農業ドクトリンに従い、すべての野菜は「平成の食卓」にふさわしい形状に矯正されている。不揃いな野菜は、システムのバグとして処理されるのだ。

その時、作業小屋の隅に鎮座していた巨大な箱――FAX機が、突然唸りを上げた。

『警告。警告。第0x4F9ユニットによる閣議決定プロセスにおいて、署名アルゴリズムの予期せぬ露出を確認』

合成音声のアナウンスが、無機質にビニールハウス内に反響する。FAX機がガガガ、と音を立てて熱感紙を吐き出し始めた。

「なんだ、また誤作動か? 最近の政府は締まりがねえな」
親父が鼻で笑う。

私はホログラム掲示を「緊急通知モード」に切り替えた。通常、閣議決定の内容は厳重に暗号化された「党ドクトリン」の署名付きで届く。しかし、今日は違った。空中に投影されたのは、加工されていない生のソースコード――署名アルゴリズムそのものだった。

文字列が滝のように流れていく。本来、市民の目には触れてはならない、統治の根幹をなす聖なる数式だ。だが、私の目の前で露わになったそのロジックは、あまりにもお粗末なものだった。

`IF (LUCKY_ITEM == "STRAIGHT_CUCUMBER") AND (TREND_COLOR == "PASTEL_GREEN") THEN EXECUTE_MANDATE();`

私は目を疑った。数十万の並列演算ユニットが弾き出した「社会安定に最適な政策」の正体が、約三百年前の女性誌の占いコーナーとおぼしきデータベース参照だったとは。

『署名完了。直ちに執行されます』

FAXの合成音声が告げると同時に、プラント内のマニピュレーターが一斉に作動した。ウィーン、という駆動音とともに、収穫前のキュウリたちに物理的な圧力がかけられる。わずかに湾曲していたキュウリたちが、ミリ単位の精度で「真っ直ぐ」に矯正されていく。

吐き出されたFAX用紙には、黒々とした明朝体でこう印字されていた。

『閣議決定事項:春のラッキーアイテムに基づき、胡瓜の湾曲率をゼロとすることを義務付ける。これにより国民の運気は三パーセント向上する』

私は呆然と、もはや工業製品のように直立したキュウリの列を見つめた。

「……くだらねえ」
親父の声が、乾いた笑いを含んで聞こえた。「だがまあ、曲がったキュウリは箱に詰めにくいからな。流通の理屈としちゃあ、あながち間違っちゃいねえよ」

「占いの理屈だよ、親父」

私はため息をつき、FAX用紙を破り取った。裏側には、セキュリティホールから漏れ出したであろう「今週のラッキースポット:代官山」という文字列が、うっすらと透けて見えていた。