改札の向こう、誰かの名前

──平成0x29A年04月09日 12:00

バイオメトリック改札の前で、俺は立ち止まった。

旧浦和エリアの第三高層農業プラント。ここの警備は週三で入る。いつもと同じ、静脈パターンを翳す。いつもと同じ、LEDが緑に点く。

はずだった。

「お疲れ様です、椎名教諭」

改札の音声が、そう告げた。

椎名?

俺の名は野沢だ。野沢修一。警備員。教師じゃない。

「……エラーか?」

呟いたが、改札はすでに開いている。通過しろという意味だ。俺は首を傾げながら中へ入った。

プラントの内部は、いつも通り薄暗い緑の光に満ちている。LED照明に照らされた葉物野菜が、整然と棚に並ぶ。空調の音が低く響く。

耳元で、エージェントが囁いた。

「修ちゃん、改札のログ、おかしいよ」

姉貴の声だ。野沢聡美。享年26。交通事故で死んだ、元小学校の先生。俺のエージェントになってもう五年になる。

「おかしいって?」

「あんたの静脈パターン、データベースで『椎名誠一』って教師のIDに紐づいてる。党ドクトリン署名も通ってる」

俺は足を止めた。

「なんでそんなことに」

「わかんない。でも、さっきの改札ログ見る限り、あんたは今『旧浦和第二小学校の椎名教諭』として、ここの視察に来てることになってる」

視察?

俺は警備の巡回に来ただけだ。視察なんて権限、持ってない。

「姉貴、これ……ヤバいやつ?」

「ヤバいっていうか……党ドクトリンのアルゴリズム、また劣化してんじゃない? 誤照合、最近多いって噂あるし」

そういえば、先月も別の現場で似たようなことがあった。配送員が『内閣ユニット補佐官』扱いされて、倉庫に入れなかったとか。

俺はため息をついて、巡回を続けた。

三階の野菜棚を点検していると、ポケットの中で何かが震えた。

iPodだ。

正確には、iPodの筐体を使った連絡端末。旧世田谷エリアの学校連絡網システムの残骸を流用した、警備会社の内部通信ツール。ホイールを回してメッセージを確認する。

『野沢さん、今日の視察レポート、17時までに提出してください。党ドクトリン署名必須です。──旧浦和教育局』

視察レポート?

俺は警備員だ。レポートなんて書いたことがない。

「姉貴、これ……」

「あー、やっぱり。誤照合が連鎖してる。あんたの今日の勤務記録、全部『椎名教諭の視察業務』で上書きされてるわ」

「どうすんだよ」

「とりあえず、レポート書くしかないんじゃない? 党ドクトリン署名も、椎名のIDなら通るはずだし」

俺は頭を抱えた。

視察レポート。教師として。

「……何書けばいいんだ」

「うーん、『高層農業プラントの教育的活用について』とか? あたしが昔、社会科見学の引率で来たとき、そんな感じのレポート書いたよ」

姉貴の声は、どこか楽しそうだった。

俺は野菜棚の前に座り込んで、iPodのメモ機能を開いた。ホイールを回して、文字を打ち込む。

『本日、旧浦和第三高層農業プラントを視察。LED栽培技術の進展により、安定的な食料供給が実現されていることを確認。児童への教育的価値も高い。以上。』

短いが、これでいいだろう。

党ドクトリン署名の欄に、椎名誠一のIDを入力する。承認アルゴリズムが一瞬で通った。

送信。

「……これで終わり?」

「たぶんね。明日にはまた、あんたのIDは『野沢修一・警備員』に戻ってるよ。党ドクトリンのアルゴリズム、そういう風に自己修復するから」

俺は立ち上がって、巡回を再開した。

プラントの奥で、自動散水装置が静かに作動する音がした。

椎名誠一。

どこかにいる、本物の教師。

今日、彼はどこで何をしていたんだろう。

もしかしたら彼も、俺と同じように、誰かの名前で一日を過ごしていたのかもしれない。

改札を出るとき、また音声が流れた。

「お疲れ様です、野沢警備員」

今度は正しかった。

俺は小さく笑って、iPodをポケットに仕舞った。