磁気の裏側、代理人の沈黙
──平成0x29A年06月09日 16:20
第4金融ブロックの自動契約コーナーは、いつも消毒液と古い紙幣の匂いが混ざっている。午後四時二十分。私は清掃用具をカートに押し込み、休憩中の札を下げて、自分自身が顧客としてブースに入った。
「契約更新手続きを開始します。カードを挿入してください」
無機質な合成音声が響く。私は胸ポケットから、通勤にも使っている磁気定期券一体型のキャッシュカードを取り出した。表面は摩耗し、銀色の文字はほとんど読めない。今朝、駅のバイオメトリック改札が私の虹彩を読み取るのと同時に、この磁気ストライプを三回も擦らせたせいで、さらに傷が増えた気がする。生体認証だけで済めばいいものを、党ドクトリンは「物理的な所有の証明」を未だに尊んでいる。
「エージェント認証を求めています。同席をお願いします」
画面の指示に従い、私は視界の右端に常駐しているアイコンに意識を向けた。しかし、そこにいるのはいつもの彼女ではない。
「代理エージェント、認証プロセスへ移行します。法的同意コードを生成中」
平坦な男の声。私の妻、由香里のエージェントは三日前から法定倫理検査のためクラウドに凍結されている。代わりに割り当てられたこの標準型エージェントは、由香里のように「今日は顔色が悪いよ」とも言わないし、無駄な雑談もしない。ただ、冷徹にタスクを処理するだけだ。
「エラー。信用スコアの変動により、有人オペレーターとの通話が必要です。備え付けの通信機をご利用ください」
画面が赤く点滅した。私はため息をつき、ブースの隅にある緑色の公衆電話に目をやった。最新の量子暗号通信が飛び交うこの時代に、金融契約の最終確認だけは、なぜかこのアナログな受話器を通さなければならない。セキュリティという名目の、ただの懐古趣味だ。
受話器を取り、十円玉を入れる音だけがブースに響く。窓の外では、夕暮れの空を黒いドローンが群れを成して横切っていくのが見えた。誰かの夕食か、あるいは督促状を運んでいるのだろう。
「はい、センターです。小野寺圭介様ですね」
ノイズ混じりの向こう側から、疲れた人間の声がした。
「今回の更新ですが、保証人エージェントの不在により、一時的に金利が引き上げられます。規約ですので」
「妻は検査中なだけです。来週には戻ります」
「システム上、現在のステータスが全てです。承諾いただけない場合、カードは失効します」
理不尽な話だ。私は受話器を握りしめた。代理エージェントは沈黙している。由香里なら、ここで気の利いた判例の一つでも引用して、相手をやり込めてくれたはずだ。やはり、借り物の知性では私の生活は守れないのか。
「……わかりました。更新します」
私が諦めてそう告げようとした瞬間、視界の代理エージェントが不意に瞬いた。
『検索完了。ローカルキャッシュに未送信の署名を発見』
代理エージェントが無感情に告げると、電話機のスピーカーから「ピー、ヒョロロロ」という懐かしいモデム音が割り込んだ。
「えっ、あ、ちょっと待ってください。……確認できました。奥様の『事前包括同意データ』が受信されました。日付は……検査入りの直前ですね」
オペレーターの声が驚きに変わる。
「これには特約条項への署名も含まれています。金利据え置きで更新可能です」
通話を終え、受話器を置くと、釣銭口に十円玉がチャリンと戻ってきた。
私は戻ってきた硬貨を握りしめる。冷たい金属なのに、なぜか温かい気がした。由香里は、自分が不在になるこの数日間のことまで、先回りして準備していたのだ。何も言わずに。
「処理完了。カードを排出します」
機械がカードを吐き出す。代理エージェントは再び沈黙し、ただのアイコンに戻っていた。私はブースを出て、空を見上げる。ドローンの羽音が、少しだけ軽やかに聞こえた。