検針票の裏に残る体温
──平成0x29A年 日時不明
私の右耳で、義母が咳払いをした。
「あんた、今の客の虹彩、揺れてたわよ」
窓口の向こうに座っていた男はもう立ち上がっている。私は曖昧にうなずきながら、折りたたみ携帯を開いてセンサーダストの反応ログを呼び出した。外側のサブ液晶にはポップ体で「未読14件」と出ている。内側のメイン画面にはiモード風のインターフェースで、この窓口周辺に漂うセンサーダストが拾った微粒子データが棒グラフになって並んでいる。男の発汗量、呼気中のコルチゾール推定値。どちらもやや高い。だが契約拒否の根拠にはならない。
私は第七地区信用金庫の融資審査窓口に座って三年になる。今日も朝から、住宅改修ローンや生活便宜貸付の申込みが続いている。
「義母さん、揺れてたって、どのくらい」
「左の瞳孔が〇・三ミリ大きかった。嘘ってほどじゃないけど、何か隠してる顔よ。昔、保さんもああいう顔で帰ってきたことあったわ」
保、というのは義母の亡き夫、つまり私の義父だ。義母の水野節子は四年前に膵臓がんで逝った。享年六十八。生前は信用組合の窓口を三十年やっていた人で、審査の勘だけは確かだった。だから私はこのエージェントに助けられている。
はずだった。
最近、義母の言葉の端に、知らない人の名前が混じる。保さん、ではなく「保さんも」と言ったあとに、一瞬だけ別の名前を飲み込むような間が入る。先週は「高橋さんのとこの融資、あれ結局どうなったの」と訊かれた。高橋という顧客はうちにはいない。義母の元の職場にいたのかもしれないし、まったく別の記憶の残滓かもしれない。
法定倫理検査は来月だ。そこで引っかかるかどうか。
次の客が来た。五十代の女性で、ガス検針票を持っている。住所確認の補助書類として使えることになっている。検針票の右下には二次元バーコードが印刷されていて、私は卓上の読み取り機にかざした。続けて生体認証。女性が窓口のガラス板に右手の五指を押し当てると、ガラスの下から淡い赤外光が走り、静脈パターンを読んだ。
照合完了。名義一致。
「節子、どう見る」
沈黙が三秒。長い。
「……あの検針票、先月分じゃない。先々月のだわ」
確認すると、確かに日付が一ヶ月古い。規定では直近三ヶ月以内なら有効だから問題ない。だが義母は、有効期限の話をしているのではない気がした。
「昔ね、うちの窓口にも古い検針票ばっかり持ってくる人がいたの。あの人も——」
また、間。
「あの人も?」
「……ごめんなさい、誰だったかしら」
融資の書類に党ドクトリン準拠のアルゴリズム署名を通す。携帯のサブ液晶が青く点滅して、第0x7A2F1内閣ユニットから承認通知が降りてきた。今の総理大臣が誰かは知らない。五分後にはもう別の人だ。
女性が帰ったあと、私はガス検針票のコピーをファイルに綴じた。紙の端がわずかに湿っている。生体認証のときにガラスに残った手汗が移ったのだろう。
「節子さん」
「なあに」
「来月の検査、ちゃんと受けようね」
「もちろんよ。私はいつだってまともだわ」
義母はそう言って、小さく笑った。聞き慣れた笑い方だった。
ただ、その直後に義母は「ねえ、窓口の花、今日はガーベラ?」と訊いた。
うちの窓口に花瓶はない。三年間、一度もなかった。
私は「うん、ガーベラ」と答えて、折りたたみ携帯を静かに閉じた。