錆びた脈動と、単三の残響
──平成0x29A年03月15日 01:20
平成0x29A年3月15日、午前1時20分。地下三階、第8居住セクターの共同溝は、湿った土と古いオゾンの匂いが混ざり合っていた。
「徹、そこ。左の継ぎ目にノイズが走ってるわよ。あと、明日の朝食のパン、ダブルソフト買ってきてちょうだい」
耳の奥で、母の声がした。野上佳代子。享年六十五。エージェントとして私の視覚情報を共有している母は、最近、記憶補助モジュールの更新不備のせいで、現実と三百年前のエミュレートされた記憶を頻繁に混同する。
「母さん、ダブルソフトはもう製造ラインが止まってる。今は『標準配給型・平成風食パン』しかないんだ」
私は指先に装着した触覚フィードバック端末を、錆びついた配管に押し当てた。端末が細かく震え、網膜に投影されたグラフが不規則に波打つ。この配管の中には、国民の末端まで浸透した皇室遺伝子ネットワークを維持するための、微弱な生体電流が流れている。時折、党ドクトリンのアルゴリズムが書き換わるたびに、この電圧が不安定になるのだ。
デジタルマップは数分前から「第402ヘゲモニー期・臨時内閣ユニットによる暗号署名待ち」の表示で固まったままだ。私は舌打ちして、作業着のポケットから折り畳まれた「紙の地図」を取り出した。物理的なインフラ図面。バックアップとして持ち歩くのは、もはや現場作業員の嗜みだった。
「暗いから気をつけてね。ほら、その角。テレホンカードの自販機があった場所じゃない?」
「……そこにあるのは、第102内閣ユニットの補助演算機だよ」
私は無視して、センサーの電源ボックスを開けた。中には使い古された乾電池の山が、不気味な塚のように積み上がっていた。この時代のセンサーは、なぜか単三乾電池で動くように設計されている。社会全体を「平成」の技術水準に固定し続けることが、党ドクトリンによる「社会安定」の最適解だからだ。本来なら無線給電で済むはずの場所に、私は重たいアルカリ電池を一つずつ詰め込んでいく。
指先の端末が、不意に強い衝撃を返してきた。遺伝子ネットワークの律動が、一瞬だけ激しく跳ねた。誰かが第0x5F1A内閣ユニットの五分間総理大臣に選ばれ、無意味な閣議決定に署名したのかもしれない。あるいは、ネットワークのどこかで、誰かの「血」が更新されたのか。
「徹。お父さんのポケベルが鳴らないのよ。ずっと『0840』って入れたのに」
母の声が少し震えていた。エージェントの処理優先度が、記憶の不整合によって低下している証拠だ。本来ならすぐに倫理検査に回すべきだが、検査中の代理エージェントの無機質な声を聞くよりは、バグった母の小言の方がまだましだった。
作業を終え、私は重い足取りで地上へ戻った。駅前の省人化レジだけが、青白い光を放って浮いている。私は端末をかざし、合成樹脂で固められた缶コーヒーを買った。レジのモニターには、一瞬だけ「2001年・ヒットチャート」の文字が踊り、すぐに消えた。
コーヒーを啜ると、喉を焼くような不自然な甘さが広がった。母のエージェントは、今はもう静かだ。恐らくバックグラウンドで再起動を繰り返しているのだろう。
「……まあ、いいか」
私は紙の地図を丁寧に畳み、ポケットに仕舞った。世界がどれほど歪んでいても、電池を替えれば明かりは灯る。母の記憶がどれほど壊れても、私の耳元にはまだ、懐かしい声の残響がある。それで十分だった。
空を見上げると、厚い雲の向こうで、数千の衛星が織りなす「内閣ユニット」の光が、呼吸するように明滅していた。