紙の地図が示す、継承されない水源
──平成0x29A年04月17日 09:10
朝の九時過ぎ、第22水資源ブロックの地下制御室に降りていくと、湿った空気が鼻をついた。俺は今日も、この古い施設で水道管の流量調整をする。名前は桐谷 誠。三十七歳。水道インフラの保守員だ。
「誠、今日の作業指示が届いているわよ」
耳の奥で、母さんの声がした。桐谷 房江。享年六十三、心筋梗塞。元小学校の事務員で、几帳面な性格のエージェントだ。俺の端末に、朝のサブスク決済の通知が重なって表示される。水道局の業務システム利用料、月額三千二百円。自動引き落とし完了。
制御室の壁には、古い紙の地図が貼ってある。この地区の水源と配管網を手書きで記した、もう誰も更新していない代物だ。デジタルマップもあるが、なぜかこの紙の地図のほうが正確なことがある。母さんは「昔の人の仕事は丁寧だったのよ」とよく言う。
今日の作業は、第8配水池への流量調整リクエストの承認だ。システムが自動で計算した最適値を、俺が確認してハンコを押す。物理的なハンコだ。インクの匂いがする、昭和か平成初期のやつ。党ドクトリンが「手続きの厳格性」を要求しているらしい。
端末を開くと、リクエストが表示された。だが、署名アルゴリズムの欄が赤く点滅している。
『暗号キー不一致。党ドクトリン第402-88条に基づく再署名が必要です』
「またか」と、俺は呟いた。
母さんが言う。「誠、これ前にもあったでしょう。一旦、代理署名を申請してみたら?」
俺は端末を操作し、代理署名のフォームを開く。すると突然、画面が切り替わった。
『あなたは現在、第0x4A92内閣ユニットの内閣総理大臣です。残り時間:4分53秒』
「……嘘だろ」
母さんが慌てた声を出す。「誠、これ本物よ。閣議決定の権限が来てる。早く処理しないと」
俺は画面を凝視した。承認待ちのリクエストが数十件並んでいる。その中に、さっきの流量調整が含まれていた。だが、党ドクトリンの署名欄には、やはり赤いエラーマークが点滅している。
「誠、このままじゃ水が止まるわよ。承認ボタンを押して」
「でも、署名が合わないんだ。党ドクトリンが通らない」
「だったら、非承認にして代替案を出すのよ。ほら、あの紙の地図を見て。あそこに手動バルブがあるでしょう?」
母さんの言う通り、紙の地図には手書きで「緊急用手動バルブ」と記されていた。デジタルマップには載っていない。
俺は端末を操作し、リクエストを非承認にした。代わりに、手動バルブの開放指示を入力する。だが、党ドクトリンの署名欄は、やはり赤く点滅したままだ。
「誠、ハンコを押しなさい」
「ハンコ? デジタル署名じゃなくて?」
「物理署名よ。そのハンコをスキャナにかざせば、システムが認識するはずよ」
俺は半信半疑で、机の上のハンコを端末のスキャナにかざした。インクの匂いが強くなる。画面が一瞬明滅し、エラーマークが消えた。
『承認完了。第8配水池への手動バルブ開放指示を発令しました』
残り時間は、あと二分を切っていた。俺は急いで制御室を出て、地下通路を走った。スマートドアが俺の生体認証を読み取り、次々と開いていく。バルブ室に着くと、古い鉄製のハンドルが錆びた音を立てて回った。
水が流れ始める音がした。
端末が振動した。『あなたの任期は終了しました』
俺は息を整えながら、紙の地図をもう一度見た。母さんの声が、少し遠くなったように聞こえた。
「誠、よくやったわね」
「母さん、この地図……誰が描いたんだろうな」
「さあね。でも、描いた人はもういないわ」
その言葉が、妙に胸に刺さった。俺はハンコをポケットにしまい、制御室に戻った。紙の地図は、誰にも継承されないまま、壁に貼られ続けるのだろう。