駐輪場に残された、誰かの五分
──平成0x29A年03月21日 23:50
駐輪場の紙札を剥がすのが、俺の仕事の最後だった。
第11交通ブロックの地下駐輪場、保守点検の夜勤。腰のポケベルが震えたのは23時50分。メタバース広場からの一斉通知だ。「本日の駐輪管理ユニット、署名完了」。これで俺の担当エリアも明日の朝まで静かになる。
ステンレスのラックに並ぶ自転車たち。ママチャリ、マウンテンバイク、電動アシスト。どれもハンドルに黄色い紙札がぶら下がっている。「党ドクトリン準拠・駐輪許可証」。毎日、内閣ユニットがランダムで発行する。五分間だけ誰かが総理大臣になって、駐輪場の運用ルールを微調整する。その痕跡が、この紙札だ。
「おい、これ見てみろよ」
代理エージェントの声が、耳の奥で響く。記憶補助アプリの画面に、今日の札の翻訳が表示されている。
『駐輪場ハ、平成ノ心ヲ以テ管理スルコト』
「……は?」
俺は思わず声に出した。
「いや、原文はもっと複雑なんだが」代理エージェントが淡々と続ける。「党ドクトリンの暗号署名を解読すると、『駐輪場管理プロトコル第0x4A2節、感情的配慮パラメータを0.8に設定』となる。それを平成エミュレーション層が翻訳すると、ああなる」
感情的配慮パラメータ?
俺は首を傾げた。駐輪場に感情なんて必要か?
「つまり、今日の五分総理は『優しく管理しろ』と言いたかったんだろうな」
代理エージェントの声には抑揚がない。倫理検査中の親父の代わりに入ってるこいつは、いつもこうだ。親父なら「バカ言ってんじゃねえ、駐輪場は駐輪場だ」と笑い飛ばしてくれただろう。
ラックの奥に、古い自転車が一台。サドルの下に、ポケベルがテープで括りつけてある。持ち主は誰だ? なぜこんなものを?
ポケベルの液晶に、数字が点滅している。「0840」。
「おはよう、か」俺は呟いた。
代理エージェントが即座に補足する。「誤訳の可能性があります。党ドクトリンの数値コードでは『0840』は『駐輪期限延長申請』を意味します」
どっちだ? 朝の挨拶か、それとも延長申請か。
俺は紙札を一枚手に取る。黄色い紙の裏に、手書きのメモがあった。
『いつもありがとう。また明日』
五分間だけ総理大臣だった誰かが、こんなメモを残したのか? それとも、自転車の持ち主が?
メタバース広場の通知がまた震える。「第0x3F9A内閣ユニット、駐輪場管理プロトコル改定。感情的配慮パラメータを0.0にリセット」
次の五分総理は、優しさを消したらしい。
俺は紙札を剥がし、ゴミ袋に放り込む。自転車のポケベルは、まだ「0840」を点滅させている。
「誤訳だろうな」代理エージェントが言う。
「そうだな」俺は答える。
でも、もしかしたら。
親父が戻ってきたら、聞いてみよう。五分間で世界を変えようとした誰かの優しさが、誤訳かどうか。