メダルが零れる、教室のAR
──平成0x29A年01月18日 05:30
僕は教室の後ろで、折りたたみ携帯の画面を睨んでいた。
午前五時半。第14文教ブロック職業訓練校、第3実習室。窓の外はまだ薄暗い。スマート加湿器が勝手に湿度を上げ、空気が重たくなる。僕は設定を戻そうとしたが、またすぐに元に戻ってしまう。平成エミュの仕様らしい。
「今日も早いね、陽介」
声がした。母さんだ。正確には、母さんの人格エージェント。享年42。過労死だった。僕が中学のとき、深夜の居酒屋から帰る途中で倒れた。
「うん」
僕は短く返した。今朝も訓練生たちが来る前に、教室の公共ARサインの設定を確認しなければならない。党ドクトリン準拠の職業訓練カリキュラムは、平成の職業観をベースにしている。だから訓練内容も妙だ。ハローワークの窓口対応、紙の履歴書の書き方、ガラケーでのメール返信マナー。誰も使わないスキルを、毎朝六時から教える。
「陽介、加湿器の設定、また戻ってるよ」
母さんが指摘する。僕は無言でリモコンを操作した。三回目。
教室の入り口には、公共ARサインが浮かんでいる。『本日の訓練内容:接客実務(ゲームセンター業態)』。昨日の夜、カリキュラム差分リクエストが届いて、急遽追加された科目だ。党ドクトリンが「平成的娯楽接客業の継承」を承認したらしい。誰が出したリクエストかも知らない。
僕は教材棚から、段ボール箱を引っ張り出した。中には大量のゲームセンターのメダルが入っている。昔、どこかの廃業施設から回収されたものだ。プラスチックの感触が冷たい。メダルをカウンターに並べていると、折りたたみ携帯が震えた。
『法定倫理検査完了通知:近親人格エージェント・木下(旧姓:竹内)春子』
母さんの本名だ。検査が終わった。でも、次の文面が続く。
『判定結果:不適合。再構築プロセスに移行します。代理エージェントを継続配置。』
僕は画面を見つめた。母さんの声が、少しずれた。
「陽介、メダル、ちゃんと数えた? 昔はね、一枚ずつ手で数えたのよ」
その口調。母さんじゃない。代理エージェントが、母さんの記憶を参照して喋っている。でも、母さんはゲームセンターで働いたことがない。履歴にないデータを、代理が勝手に補完している。
「……うん、数えた」
僕は嘘をついた。本当は数えていない。
六時になり、訓練生たちが入ってくる。十人ほど。みんな眠そうな顔をしている。公共ARサインが彼らの視界に指示を出す。『メダル計数訓練、各自50枚を手作業でカウントせよ』。誰も疑問を持たない。ただ黙々と、プラスチックの円盤を積み上げていく。
スマート加湿器が、また勝手に設定を変える。湿度が上がり、メダルの表面が少し湿る。訓練生の一人が、滑ったメダルを床に落とした。カラカラと乾いた音が響く。
母さん——代理エージェントが、また話しかけてくる。
「昔はね、メダルが足りなくなると、裏で鋳造し直したの。内緒だけど」
そんな話、母さんから聞いたことがない。でも代理は続ける。
「ちゃんと数を合わせないと、監査が来るのよ」
僕は黙ったまま、訓練生たちを見ていた。彼らの指先で、メダルが規則正しく積まれていく。意味のない技能が、きちんと教えられていく。そして僕の耳元で、母さんではない何かが、母さんの声で囁き続ける。