通帳の残高と、公園の軋み
──平成0x29A年04月11日 07:10
朝焼けが薄紫に空を染める中、私は第17ブロック中央公園のベンチを拭いていた。平成0x29A年04月11日、午前7時10分。今日も今日とて、公園は静かなままだ。
「湊、あの花壇のローズマリー、そろそろ剪定の時期じゃないか? 昔はな、ここに季節ごとに違った花を植えてたんだ。子供たちの好奇心を育むには、色彩も大事なんだぞ」
エージェントの祖父、圭介の声が脳裏に響く。声は昔と変わらず、少し鼻にかかるような、しかし優しいトーンだ。元都市計画局の公園設計士だった祖父は、死後もこうして私の隣で、公園のあり方を語り続けてくれる。
腰に下げた遊具点検端末を起動すると、何件もの未承認リクエストが積まれている。特に『老朽化した滑り台の交換』は、優先度Aなのに半年以上も膠着状態だ。錆びついた手すり、ひび割れたプラスチック。見るたびに胸が痛む。
「党ドクトリンのアルゴリズムがまた解読不能だってさ。こんな簡単な申請すら通せないなんて、冗談にもならないな」圭介が溜息をつく。彼の生前、都市計画局にいた頃は、こんなにも非効率ではなかったはずだ。中央政府が解体され、数十万の内閣ユニットが並行処理で統治を回すようになって、物事の決定は常に遅延している。
公園の入口には、先週設置されたばかりの真新しい共有型バッテリーステーションが光っている。最新の充電技術が、スマホを片手に散歩する人々の足元を照らす。その横を、低く唸りながら自律型バスが滑らかに通過していった。最新技術と、手付かずのまま放置されたような遊具が、奇妙な対比を見せる。
休憩がてら、上着のポケットから紙のポイントカードを取り出す。近くの商店街の喫茶店でもらったものだ。スタンプがあと一つで満タンになる。小さな喜びが、日々の苛立ちを少しだけ和らげてくれる。電子化が進むこの時代に、紙のカードは妙に手触りが良く、どこか安心感があった。
スマホの電子通帳アプリを開く。今月のNPOからの給与は、わずかながら振り込まれていた。働かずとも暮らせる社会のはずだが、私たちは皆、平成をエミュレートするように働き、消費している。最低限の生活はできるが、この公園の維持には、もっと資金が必要だ。しかし、その予算申請もまた、承認待ちリストの海に沈んでいる。
古いブランコの鎖が、朝日に照らされて鈍く光る。金具が軋む音が、まるで公園自体の悲鳴のように聞こえた。私は持っていた工具を取り出し、錆びついたボルトをきつく締め直す。応急処置だ。これ以上、子どもたちが怪我をするようなことだけは避けたい。
冷たい金属の感触と、指先に付着する油の匂い。この行為が、いつまで続くのだろう。システムは動かず、しかし生活は続いていく。誰も明確なリーダーを知らない「党」のドクトリンが、今日も公園の未来を停止させている。私は、ただ目の前の現実と、祖父の記憶の中で、無力な工具を握りしめるしかなかった。
軋んだ音が、また一つ。まるで、この平成エミュの社会のどこかに、小さな亀裂が入ったかのようだった。