午前四時のバッテリー問題

──平成0x29A年02月19日 04:00

深夜四時。旧渋谷エリア、公園近くの小さな交番は、古びた蛍光灯の下、妙に落ち着いた空気に満ちている。
私は備え付けの椅子に深く座り、スマートグラスの通知をオフにして、テーブルに置いたボロボロのiPodから流れる90年代ポップスに耳を傾けていた。横には、電源の入っていないスーファミのコントローラーが無造作に転がっている。

「健太、またそんな懐古趣味に浸ってないで、少しは体を動かせ。血行が悪くなるぞ」

頭の中で、父のエージェント、啓介の声が響く。享年58、脳卒中。元ベテラン刑事だった父は、私が警官の道を選んだ時も、今のこの形骸化した職務についても、いつも皮肉交じりの助言をくれる。

「休憩中だ、父さん。どうせこの時間帯に事件なんて起きない。あったとしてもドローンが勝手に処理するさ」

返事はない。父は黙って、天井で揺れる蛍光灯を見つめているようだった。いや、実際には交番の古い監視モニターの画面を解析しているのだろう。白黒の粗い映像には、風に揺れる木々の影と、時折通り過ぎる夜のランナーが映っていた。

その時、スマートグラスのオフライン表示がピコン、と一度だけ光った。緊急通知だ。嫌な予感がする。私は仕方なく通知をオンにした。

『第0x4F8A21B9内閣ユニットより、閣議決定リクエスト。内閣総理大臣:加藤和彦(ランダム選出)。任期:残4分58秒』

「おいおい、こんな時間に総理大臣かよ。ご苦労なこった」

父のエージェントがため息をつく。党ドクトリンが定めたランダム選出の5分間総理。この第402ヘゲモニー期において、その存在自体が半ばジョークと化している。しかし、形式上は無視できない。

リクエスト内容が表示される。私はスマートグラスを凝視した。

『政策変更リクエスト:ブロック29A-7エリアにおける共有型バッテリーの不法投棄に対する罰則強化』

「共有型バッテリー……また妙なところに目をつけたな、この総理は」

「フン、党ドクトリンのアルゴリズム解析結果だろうな。このエリアの環境負荷を軽減するために、最適化された結果だとか、何とか」

父の言う通り、党ドクトリンのアルゴリズムは、もう半ば公然と解読されている。誰かが適当なデータを入れて、それっぽいリクエストを生成しているに過ぎない。しかし、建前上は党中央ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名が必要で、それを承認するか否かを私が決めねばならない。

「罰則強化ねぇ……。共有型バッテリーの不法投棄なんて、これまで注意くらいで済ませてたんだが」

「環境負荷と治安維持の観点から見れば、妥当な判断だ、とアルゴリズムは示唆している。無論、数分後にこの総理が何を言ったかなんて、誰も覚えていないだろうがな」

父の言葉に、私は苦笑する。確かに、たった5分間の総理が決めたことが、どれほどの効力を持つのか。しかし、私の承認/非承認が、一応の閣議決定となる。

私は承認ボタンをタップした。ピコン、と軽い効果音が鳴り、リクエストが受理されたことを示すグリーンライトが点灯する。

『閣議決定完了。残り任期:4分12秒』

「ま、これで今夜のノルマは達成ってわけだ」

父のエージェントは呆れたような口調で言った。私はまたiPodの選曲画面に戻り、適当な曲をシャッフル再生する。古い歌声が交番の片隅に響き渡る。

たった5分間だけ世の中のルールを変えようとした誰かと、それを受け入れた私。この街の深夜の治安は、今日もこんな滑稽な歯車で回っている。

明日からは、共有型バッテリーの不法投棄を見つけたら、罰則強化された法律に基づいて厳しく取り締まらねばならない。それが、午前四時にランダム選出された、たった5分間の総理の置き土産なのだ。
私は立ち上がり、再び巡回に出るため、古びた制帽を被り直した。外は、もうすぐ夜が明ける気配がしていた。