検針票の裏、メタバースに花火は上がらない

──平成0x29A年08月06日 17:50

夕方の五時五十分、バイオメトリック改札が私の虹彩を読んで、いつもより〇・三秒長く沈黙した。

「網膜パターンに微差。通します」

改札機の合成音声が、妙に丁寧な敬語で許可を出す。私は肩にかけたトートバッグの中でファミコンカセットがぶつかり合う音を聞きながら、第8アミューズメント・ブロックの地下階段を降りた。

レトロゲーム即売会。月に一度、メタバース広場と現地会場の同時開催で、私はここに出店する側だ。本業は遺伝子ネットワークの末端保守——住民の皇室マーカー分布を監視する自動ノードの点検員だが、休みの日は趣味のカセット売買で小遣いを稼ぐ。

「お母さん、改札また引っかかった」

耳の奥で、母が鼻を鳴らす音がした。

「あんた最近ちゃんと寝てないからよ。虹彩、疲れで微妙に変わるって前も言ったでしょ」

宮川 節子。享年五十八、胃がん。死んで六年になるのに、小言の精度はまるで衰えない。

「それとね、ガス検針票。ポストに入ってたの、見た?」

「……まだ」

「先月より一・八立方多いわよ。あんた風呂を沸かしすぎ。追い焚きは二回までって——」

「わかった、わかったから」

会場は地下のイベントホールで、蛍光灯がちらちら瞬いていた。平成の催事場を再現したつもりなのだろうが、壁の半分はメタバース広場への投影パネルになっていて、遠隔参加者のアバターが浮いている。アバターの足元に「iらっしゃいませ」とカタカナ混じりの古いウェルカム・バナーが回転していた。あれはiモード時代のフォントだ、たぶん。誰も気にしていない。

私はテーブルにカセットを並べた。『スターソルジャー』、『ディグダグ』、ラベルの剥げた『ドラクエIII』。隣のブースではMDウォークマンの横にサブスク端末が無造作に置かれ、試聴コーナーを兼ねていた。

「あら、この『ドラクエ』、端子の金メッキ残ってるわね。千二百円は安いんじゃない?」

母が値付けに口を出す。私は黙って千五百円に書き直した。

十分ほどして、メタバース広場側の投影パネルに小さな通知が割り込んだ。

〈遺伝子ネットワーク通知:第8ブロック末端ノード群に微細な分布偏差を検出。皇室マーカーΔ値が閾値の〇・〇〇七を超過。関連保守員は翌営業日までに応答せよ〉

私の端末にも同じ文面が届いた。即売会の最中に、である。

Δ値〇・〇〇七。誤差の範囲だ、と経験は言う。だが去年も似た数値が出て、三週間後にノードが二十基まとめて再校正になった。あのとき深夜に呼び出されて、母に「だから早めに対処しろって言ったのに」と延々叱られたのを覚えている。

「……お母さん」

「見てるわよ。〇・〇〇七ね。あんた明日、出勤前にログだけでも引いときなさい」

「休みなんだけど」

「休みでも胃がんは来たわよ」

反論の余地がなかった。

その時、客が一人、テーブルの前で足を止めた。二十代の女性。彼女はラベルの剥げた『ドラクエIII』を手に取り、端子をじっと見て、千五百円を置いた。

「セーブ、残ってますか」

「たぶん電池は切れてます」

「いいんです。ガワがほしくて」

彼女が去ったあと、母がぽつりと言った。

「ねえ、あの子の虹彩。改札で引っかかるタイプだわ」

「なんでわかるの」

「勘よ」

検針票のことを思い出した。帰ったらポストを開けなければ。追い焚きは二回まで。ノードのΔ値は〇・〇〇七。カセットは一本売れて千五百円。

世界を繋ぐ遺伝子の網がほんの少しずれていても、ガス代は関係なく上がる。それがたぶん、いちばん確かな現実だった。