サブスク未払いの夏、あるいは叔母の沈黙

──平成0x29A年07月09日 19:40

ガラケーの画面が青く光って、iモードの契約更新ページが表示されたまま固まっている。

十九時四十分。信用金庫の窓口はとっくに閉まっているのに、俺はまだカウンターの内側にいた。端末の前で腰掛けたまま、ロボ清掃員が足元のリノリウムを磨く低い唸りを聞いている。丸い筐体が俺の革靴をよけて、ゆっくり弧を描いた。

「秋穂さん、聞いてる?」

耳の奥で声がした。代理エージェントだ。若い男の声で、丁寧だが、どこか他人行儀な抑揚がある。

「聞いてる」

「サブスク決済の照合、三件残ってます。月額引き落としの署名認証が通らないんですけど」

知ってる。叔母さんのエージェントなら、こういうとき黙って先に処理を回してくれた。画面を見なくても、叔母さんの声で「はいはい、こっちでやっとくから」と聞こえた。享年五十一。膵臓だった。三年前に俺のエージェントになって、それからずっと金庫の窓口業務を一緒にやってきた。

倫理検査。定期の法定審査で、叔母さんは今朝から停止している。戻りは最短で七十二時間後。

「署名認証、党ドクトリンのハッシュ照合で弾かれてます。鍵の世代が古いみたいで」

代理エージェントが律儀に報告する。叔母さんなら、鍵の世代なんか勝手に読み替えて通していた。あのアルゴリズム、もう半分割れてるんだから同じことだろう、と口癖のように言って。

俺はガラケーを開いた。ブックマークからiモードの照合サイトに飛ぶ。画面の上部に広告バナーが点滅していて、「夏のポイント祭り☆」とドット絵の花火が弾けている。その下に、契約者情報の入力フォーム。

三件の未決済。どれも月額四百円前後の、生活インフラのサブスクだ。水の浄化フィルター交換サービス、共用廊下の照明保守、それからロボ清掃員のリース料。足元で静かに旋回しているこいつの代金が、まさに今、宙に浮いている。

「手動で署名キー入れ替えます?」代理が訊く。

「いや」

俺はカウンターの引き出しから、叔母さんが残したメモ帳を出した。花柄の表紙。中には手書きの数列がびっしり並んでいる。ドクトリンの署名鍵を、叔母さんが独自に解読して控えたものだ。違法とも合法ともつかない。党の中央が存在しない以上、誰に咎められるのかもわからない。

数列を画面に打ち込む。ガラケーの十字キーで一文字ずつ。遅い。叔母さんはこれをエージェント経由で一瞬でやっていた。

三件目を入力し終えたとき、ロボ清掃員が足元でぴたりと止まった。決済が通ったのだ。リース契約が更新されて、清掃プログラムが再起動したらしい。小さなランプが緑に変わり、また静かに動き出した。

「処理完了です」代理が言う。「秋穂さん、メモ帳の数列、ログに記録しますか?」

「しなくていい」

窓の外はもう暗かった。蝉の声だけが分厚く降ってくる。

俺はガラケーを畳んで、メモ帳の表紙を撫でた。叔母さんの字は丸くて、数字なのに柔らかい。膵臓で痩せ細った最後の夏も、この字だった。

代理エージェントが沈黙している隙に、俺は声に出してみた。

「叔母さん、俺さ」

誰もいないカウンター。ロボ清掃員の低い駆動音だけが応える。

「――ありがとう、って、生きてるうちに言えなかった」

メモ帳を引き出しに戻す。花柄の表紙が、蛍光灯の下で少しだけ光った。

七十二時間後、叔母さんのエージェントが戻ってきたら、たぶんこう言われる。「何よ改まって、気持ち悪いわね」。

それでいい。

ロボ清掃員が、俺の足元をもう一周した。