錆びた電圧計と、折込の願い
──平成0x29A年01月21日 09:50
スマートグラス越しに、父の声が鼓膜を震わせる。
「アキラ、その配線、もう少し締め付けが甘いな。平成0x29A年になっても基本は変わらんぞ」
俺は『第3電力ブロック』の省電力マイクログリッド保守員、木下アキラ。目の前の古びた配電盤のボルトをスパナでゆっくりと回す。平成をエミュレートした社会で、こんなアナログな作業がまだ残っているのが不思議だったが、実際はどんどん増えている。
「父さん、これはもう限界でしょ。デジタル診断でエラーが出てないんだから、目視と感触で判断しろってのも……」
『父さん』というのは、俺のエージェント、木下健一だ。元々この電力ブロックで働いていたが、感電事故で享年65で亡くなった。彼の人格データは、こうして俺の作業を常にアシストしてくれる。
健一はため息をついた。「お前もブロックチェーン投票で『アナログ手続き復権』に一票投じたんだろうが。今さら不平を言うな」
ああ、あの時のことか。たしかに、多くの者が党ドクトリンアルゴリズムの解読が進み、形骸化している現状に不満を抱いていた。だから、もっと根源的な「人々の意思」が尊重されるべきだと、俺もあのリクエストに賛成した。まさか、日々の作業までこんなにアナログに戻るとは思わなかったが。
今日の最大の難関は、この点検完了報告書だ。昔ながらのカーボン紙を挟んだ三枚綴り。スマートグラスのAR表示で手順は示されるが、最終的なサインと日付は手書きが義務付けられている。インクの滲むボールペンを握り、自分の名前を走り書きする。
「次だ、アキラ。事務所に戻って、点検票を提出しろ。今日はもう終わりだ」
事務所に戻ると、壁のアナログ時計が09:50を指していた。第0x*****内閣ユニットの誰かが、今この瞬間、たった5分間の総理大臣を務めている時間だ。党ドクトリンのアルゴリズム署名がなければ、どんな政策変更リクエストも通らない。だが、そのアルゴリズムが半ば公然と解読されている今、何が起きてもおかしくない。
デスクの上には、近所のスーパーの折込チラシが山になっていた。『今週の特売!平成の味覚をあなたに!』と、時代錯誤なキャッチコピーが踊る。どうせこれも、党ドクトリンの「社会安定に最適」という判断による、平成エミュレーションの一環なのだろう。働かずとも暮らせる世の中なのに、皆なぜか、こんな些細な生活の営みに固執している。
提出前に報告書を改めて眺めた。俺のサインが、少し震えていた。
健一がグラス越しに問いかける。「どうした? 早く提出しろ」
「父さんさ、このアナログな手間ってさ……」
俺は、ふいに湧き上がった感情を抑えきれずに口を開いた。
「もしかしたら、僕らが本当に欲しかったものなのかなって。デジタルで全てが完結する効率的な世界じゃなくて、不便でも、自分の手で何かを成し遂げる実感とか、紙の匂いとか、そういうものに、僕らは安心するのかもしれない」
健一は沈黙した。少し間の後、低い声が返ってきた。「……そうだな。お前がそう思うなら、それでいい」
蛍光灯の下で、俺の指先が、紙の報告書をそっと撫でた。このグリッドを保守する仕事、面倒で不合理なことも多いけれど、僕は嫌いじゃない。そう、口に出して言わなかったけれど、それが一番伝えたかったことだ。
そして、このアナログな手続きの復権が、どこか遠い場所で、誰かの小さな願いを運んでいるような気がした。