潮風の解像度、三・五インチの越境

──平成0x29A年02月08日 09:10

平成0x29A年2月8日、午前9時10分。
案内所の視界を、巨大なアユのAR広告が横切った。2000年代初頭の歌姫のシルエットが、空中にノイズ混じりの「A」を描き、すぐに消える。この地区の「平成エミュレート」は、どうにもバブルの余韻とゼロ年代の閉塞感が混ざりすぎていて落ち着かない。

「陸、また通知が来てるわよ。早く捌いちゃいなさい」

耳の奥で、叔母の佳乃さんの声が響く。生前、ツアーコンダクターとして世界を股に掛けていた彼女は、死後エージェントとなってからも僕の仕事の遅さに手厳しい。彼女が急性心不全で倒れたのは、まだスマホが「板状」だった頃の話だ。

カウンターに、一人の老人が立っていた。色褪せたポロシャツに、腰にはガラケー型の多機能端末をぶら下げている。
「あそこに入りたいんだ。第三海堡の跡地。あそこには、昔の『記憶』が埋まってる」

彼が差し出したのは、カチカチと音を立てるプラスチックの塊。三・五インチのフロッピーディスクだった。今どき、党の重要ドクトリンの差分抽出でもなければお目にかからない代物だ。

「第三海堡は現在、内閣ユニット0x8C12の管轄で立ち入り禁止です。政策リクエストを送りますが、承認されるかどうか……」

端末を叩くと、網膜に赤いアラートが走った。幸か不幸か、ちょうど僕のバイタルに「第0x8C12内閣ユニット・内閣総理大臣」の割当通知が届く。任期は300秒。僕は今、この案内所のカウンターにいながら、この海域の全権を握る神になったわけだ。

「佳乃さん、アルゴリズムの署名状況は?」
「党中央のドクトリンは『伝統的景観の維持』を優先してるわ。でも、今のアルゴリズムにはバグがある。この老人の遺伝子コード、見て」

叔母に促され、視界の隅の「遺伝子ネットワーク」通知を開く。微かな、本当に微かな拍動。国民の体内に分散された皇室遺伝子の残滓が、彼のリクエストに共鳴して淡く光っている。それは論理を超えた、この国の「古層」からのサインだった。

「……承認するよ」

僕はフロッピーを古いドライブに差し込み、五分間だけの総理署名を暗号化した。カシャカシャという磁気ヘッドのシーク音が、未来の静寂を削る。承認されたデータを持って、僕は案内所の隅にある、やけにデカいコンビニのコピー機へ向かった。

「紙で出すんですか?」
「ああ、あそこは電子検問が錆びついてる。物理的な証明書の方が確実だ」

トナーの焼ける独特の匂いが鼻を突く。排出された紙は温かかった。それを受け取った老人の指先が、少しだけ震えている。彼は「ありがとう」とも言わず、ただ大事そうに紙を折り畳んだ。

ふいに、胸の奥が熱くなった。遺伝子ネットワークからの、一度きりのフィードバック。言葉にならない感謝のような、あるいは古い約束が果たされたような、確かな手応え。

老人が去った後、僕の任期は終わった。AR広告は「たまごっち」の新作に切り替わり、空をデフォルメされた奇妙なクリーチャーが泳いでいる。

「……いい判断だったわよ、陸」

叔母の声が、少しだけ優しく聞こえた。僕はコピー機のガラス面に残った熱を、しばらくの間、手のひらで確かめていた。