放課後の内閣と、噛み合わないFAX
──平成0x29A年 日時不明
西日が差し込む「代々木ゼミナール・エミュレート予備校」の第十四教室。黒板の上で揺らめくホログラムの掲示板には、蛍光色の文字で『第402ヘゲモニー期・内閣実務模擬試験:残り15分』と表示されている。
教壇に腰掛けた僕の耳元で、妹の真理が囁いた。
「お兄ちゃん、またガラケー震えてるよ。デコシール剥げそうなくらい」
胸ポケットから取り出したのは、厚さ三センチはあるピンク色の折りたたみ携帯だ。液晶画面には『任命:第0x4F2A内閣ユニット 内閣総理大臣(任期:05:00)』の文字が踊っている。
「よりによって、模試の監督中に……」
「いいじゃん、五分だけ。さっさと閣議決定して、差分データに署名しちゃいなよ。真理が補佐してあげるから」
真理のエージェントは、生前の彼女がそうだったように楽天家だ。僕の視界にARでオーバーレイされた「閣議決定リクエスト」のウィンドウが展開される。今回の議題は、第三居住区の空調設定温度を0.2度下げるためのアルゴリズム修正案。至極平和な、しかし数百万人の生活に直結する「党」ドクトリンの断片だ。
僕はガラケーのテンキーを叩き、暗号署名のシーケンスを開始した。しかし、画面に『Error: 0xEE29 - Protocol Mismatch』という赤い文字が点滅する。
「ねえ、真理。署名が弾かれるんだけど」
「嘘、アルゴリズムは解析済みのはずだよ? 待って、今チェックする」
教室の隅に置かれた旧式のFAX機が、突然ガタガタと音を立てて動き出した。本来はバックアップ記録用として置かれているだけの骨董品だ。吐き出された感熱紙を追うように、天井のスピーカーから、ざらついた合成音声が流れる。
『警告。現在の暗号化シードは、地域ドクトリンと同期していません。暗号化手続きの不一致を確認。再試行してください』
教室内でルーズソックスを履き、マークシートを塗りつぶしていた受験生たちが一斉に顔を上げた。静寂を破るFAXの駆動音と、無機質な合成音声。最前列の女子生徒が、不安そうに僕を見た。彼女の机の上には、平成初期に流行った「たまごっち」を模した個人エージェント端末が置かれている。
「お兄ちゃん、まずいよ。予備校のWi-Fi、暗号化プロトコルが古すぎて、最新の党ドクトリン署名と干渉してる。このままだと署名エラーがこの教室の端末全部に伝播しちゃう!」
真理の焦った声。ガラケーの画面を見ると、僕の「総理大臣」としての残り任期は一分を切っている。閣議決定が不成立になれば、処理のデッドロックが発生し、このセグメントの住民すべての端末に再起動がかかる。つまり、生徒たちの試験データも消える。
僕は必死にガラケーのボタンを連打した。iモード風のメニュー画面を行き来し、手動で暗号パッチを当てようと試みる。しかし、FAX機は無情にも次のエラーシートを吐き出した。
『署名、不一致。決定、非承認。ユニットの安定性を優先し、ローカルネットワークをパージします』
合成音声のアナウンスが終わるのと同時に、ホログラムの掲示板がバツンと消えた。生徒たちの手元にあるタブレット端末からも光が失われ、教室は数秒間、西日だけの静寂に包まれた。
「……あ」
誰かの声が漏れた。僕のガラケーに『任期終了:お疲れ様でした』の通知が届く。
生徒たちは、自分たちの数時間の努力が「暗号化手続きの不一致」という、誰のせいとも知れない事故で消し飛んだことを悟ったらしい。啜り泣く声すら上がらない。これが「平成」という時代を模した、この世界の日常茶飯事だからだ。
「お兄ちゃん、ドンマイ」
真理の声が、少し申し訳なさそうに響く。
「でも、空調の温度設定は守られたよ。暑いのは我慢すればいいもんね」
僕は無言で、山のように吐き出されたFAXの感熱紙を丸めた。教室の隅で、合成音声だけが「正常にシャットダウンしました」と、どこか満足げに繰り返していた。