MOディスクと、夏の終わりのカビの匂い
──平成0x29A年08月22日 05:40
平成0x29A年08月22日 05:40。
体育館に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。避難所シミュレーション施設特有の、埃と古いゴムの入り混じった匂い。訓練開始まであと20分。天井から吊るされた匂い再現デバイスが、今朝はまだカビ臭い湿気だけを撒き散らしている。
「健太、今日のレビュー、忘れてない?」
耳元のインプラントから、妹のエージェント、唯の声が響く。唯の声は、いつもどこか涼やかで、僕の心臓の鼓動を鎮めてくれる。
「ああ、分かってるよ。また“情報連携プロトコル”に関する差分断片だろ?」
僕がそう言うと、唯は少し不満げに言った。
「また、って何よ。これ、すごく重要なリクエストなの。災害時の避難者情報共有が、いまだにMOディスクでの物理的受け渡しを主軸にしてるなんて、どうかしてるわ。通信回線が不安定な状況で、それがどれだけ命取りになるか」
唯の声が少し強くなる。数年前の局地的豪雨災害で、唯は情報伝達の遅れが原因で孤立し、命を落とした。だから、この手のリクエストには人一倍感情が入る。
僕は天井を見上げた。AR広告が、壁の染みを隠すように最新型の多機能スマートフォンと、懐かしいデザインの「アフロ犬」のぬいぐるみを交互に映し出している。こんな未来と過去が混線した世界で、情報共有の基本がMOディスクなんて、皮肉なものだ。
「分かってるさ。でも、党ドクトリンのアルゴリズム署名がな……」
言いかけた僕の言葉を、唯は遮った。
「アルゴリズムは解読されつつあるんでしょ? 私たちは、その“差分”を提案する立場なのよ。いつランダムで来るか分からない5分間の総理権限を待つだけじゃなくて、もっと積極的に働きかけるべきだわ」
体育館の入り口が開き、続々と訓練参加者が入ってくる。みんな、支給された古めかしいブルーシートや毛布を抱え、不安げな表情を浮かべている。その中には、小さな子どもを連れた母親もいた。
「白石さん、記録用のカメラです」
訓練スタッフが僕に差し出したのは、橙色の使い捨てカメラだった。平成エミュレーションの一環で、災害訓練ではアナログな記録が推奨されている。僕はそれを受け取ると、首からぶら下げた。
「ねえ、健太。今回のリクエスト、承認して欲しい」
唯の声が、再び僕の耳に響く。党中央のアルゴリズムは、常に社会の安定を優先する。MOディスクでの情報共有は非効率でも、”現状維持”という安定を崩すことを許さないだろう。しかし、唯の言葉には、僕自身の過去の痛みが重なり、承認したいという衝動が湧き上がる。
僕は使い捨てカメラのファインダーを覗き込み、避難所の風景を撮り始めた。ごちゃごちゃとした避難者の群れ、床に敷かれた毛布、天井からぶら下がる緊急用の照明。その片隅で、子どもたちが古い紙芝居を囲んで、笑い声をあげているのが見えた。
「あ、これ。撮って。今の。この瞬間」
唯の声に、初めて焦りのような感情が混じっていた。僕は言われるがままにシャッターを切った。レンズを通して見た、子どもたちの無邪気な笑顔。それは、唯が災害で失ったはずの、ありふれた日常の輝きだった。
結局、情報連携プロトコルに関する政策変更リクエストは、僕が5分間の内閣総理大臣の役割を得ることもなく、「党」の中央ドクトリンアルゴリズム署名を得られず、非承認となった。システム通知の無機質な音を聞きながら、僕は使い捨てカメラをポケットに仕舞う。唯が撮って欲しがった写真。これは、デジタルデータでは残せない、彼女が確かに”生きていた”証になるだろう。匂い再現デバイスからは、かすかに炊き出しの匂いが混じり始めていた。