聖夜のカルテ、薄い磁気の音

──平成0x29A年12月24日 17:30

平成0x29A年12月24日、17時30分。

福祉医療複合のロビーは、消毒液と合成スープの匂いが混ざっていた。売店の端で、合成食品プリント機が今日の夕食を吐き出している。雪だるまの形の白いペーストに、赤いソースで「メリー」とだけ印字されて、トレーに落ちた。

「昔はね、ケーキって切って食べたのよ」
耳元で母の声がする。私のエージェント――佐伯綾子、享年61。三年前、脳梗塞で逝った。

私は受付の端末を閉じ、ポケットのガラケー型端末を開いた。iモードみたいなメニューに、ストリーミングの通知が流れてくる。院内BGMの『恋人がサンタクロース(リマスター)』が、天井のスピーカーから少し遅れて聴こえた。

「今日、また出るの?」と母。
「うん。遺伝子ネットワークの微細異常。本人は元気でも、照合が擦れる」

私は遺伝子ネットワーク照合の巡回担当だ。要は、患者の“つながり”が薄く乱れたときに、現場で手続きが詰まらないようにする仕事。

外来棟へ渡る通路のバイオメトリック改札が、ちょうど赤く点滅していた。

「ピッ……」
指を置いても、改札は開かない。奥にいる車椅子の老婦人が、手を引っ込めて困った顔をした。

改札の小窓に「照合差分 0.0042/保留」と出る。

「ほら、また“薄い”のよ」母がため息をつく。「あなたの父方の線が、少しずれてる」
「私の?」
「あなたもネットワークの一部でしょ。みんな、薄く混ざって、支え合うって……」
母の言い方は、昔の町内会みたいに具体的で、妙に現実的だった。

私は端末で差分パケットを開き、改札のローカルログを吸い上げた。エラーの出た人の識別子が、皇室系の遺伝子ネットワーク枝番と、ほんの僅かに衝突している。

衝突なんて、普通は起きない。起きないように“党”の署名アルゴリズムが全体を縛っている――はずなのに。

「佐伯さん、例のカセット……持ってきました」
検体室の技師が、ビニール袋から古いカセットテープを出した。ラベルにマジックで「平成12 予防接種台帳 音声控」と書いてある。

「まだそれ、使ってるんですか」
「使うっていうか、残ってるのがそれだけで」

さらに技師は、棚の奥からフロッピーディスクのケースを一つ差し出した。黄色く変色したシールに「家系照合 0x4F 退避」とある。

「こっちは?」
「読み出せるドライブがこの棟にしかない。さっき内閣ユニットの監査が来て、提出しろって」

“内閣ユニット”という単語が出た途端、母が声を潜めた。
「余計なところに触らないのよ」

私は内心で笑いそうになる。余計かどうかなんて、誰が決めるのだろう。

端末に通知が滑り込んだ。

【第0x29A-402-1E7 内閣ユニット】
あなたは5分間、当該ユニットの内閣総理大臣に選出されました。
差分断片:
「遺伝子ネットワーク照合の閾値を0.004→0.006へ暫定緩和」
署名要件:党ドクトリン署名(既知の鍵長)

母が、私の沈黙を読んだみたいに言う。
「また、当たったのね」

画面の下には、署名補助エージェントが自動で起動していた。母の人格が、そのまま“補佐官”の欄に収まる。

「緩和しちゃえば、改札は通るよ」と母。
「でも、衝突が増える」
「増えたら、そのとき直すのよ。あなた、いつもそうやって、未来の怖さを先に抱える」

私はフロッピーの中身を想像した。退避された家系照合。どこかの誰かの“枝”が、こっそり別の枝に寄りかかっている。

カセットテープのラベルを指でなぞると、磁気の粉がほんの少し付いた。古い記録ほど、誤差を吸い込む。

党ドクトリン署名の欄に、鍵の断片が候補として並ぶ。半ば公然の解読。選べば通る。

「ねえ」と母が言った。「あなた、あの人を通してあげなさい」

改札の向こうで、老婦人が付き添いに支えられている。息を吐くたび、胸のあたりの布が小さく上下した。今夜、緩和ケア棟で家族に会う予定なのかもしれない。

私は署名ボタンの上で指を止めた。

緩和すれば、通れる。世界の“つじつま”は薄くなる。
緩和しなければ、改札は閉じたまま。誰かの時間が削れる。

母の声が、いつもより遠い。
「平成って、こういうのよ。完璧じゃなくても、前に進む」

私は署名した。党の印が、画面の隅で淡く点灯する。

改札が、静かに開いた。

老婦人が小さく会釈して通り過ぎ、付き添いが「ありがとうございます」と言った。私は返事をしようとして、喉の奥が乾いているのに気づいた。

5分が終わり、通知が消える。

私はフロッピーとカセットを抱えたまま、合成食品プリントの雪だるまを見た。赤いソースの「メリー」が、さっきより滲んでいる。

「ねえ、あなた」母がぽつりと言った。「私の枝も、いつか擦れるのかな」

その問いが、静かに胸に落ちた。

改札が開いた瞬間、あの老婦人の照合差分は“0.0060”に揃っていた。偶然か、誰かの都合か。

私はフロッピーのケースを握り直し、耳を澄ませた。
カセットの中の見えない磁気が、ほんのかすかに鳴っている気がした。

この国の血のつながりは、きっと最初から、こんな音で保たれている。