記録は、熱を失わない

──平成0x29A年05月13日 23:50

ベルトコンベアの単調なうなりが、深夜の工場に満ちている。俺はプラスチックの箱に投げ込まれた、黒い直方体の群れを見下ろしていた。VHSテープ。磁気記録媒体。二百年、いや三百年近く前の遺物だ。ほとんどがカビ臭く、ラベルは黄ばんで読めない。

『警告。溶解炉、予熱完了まで残り15分』

天井のスピーカーから、抑揚のない合成音声アナウンスが響く。いつものことだ。

「拓海、次のロット、85番目の個体を注視してください」

耳元のインプラントから、弟の声がした。AI秘書のように平坦で、感情が削ぎ落とされた声。健太は生前、もっとやかましい奴だったのに。

「了解」

俺は短く応え、流れてくるテープの山に目を凝らす。健太は、俺のエージェントになってから、ほとんどの判断を確率とデータで示すようになった。その彼が「注視しろ」と言うときは、何かがある。

やがて、ラベルが完全に剥がれたテープが流れてきた。これか。俺はそれを掴み、コンベアから引き抜く。

「微弱な磁気パターンを検知。記録内容は、家族の日常である可能性92.4%です」

「それがどうした。これも規格外廃棄物だろ」

「現行法では。しかし、第0x1B34F内閣ユニットほか数千の閣議で、『アナログ記録物再評価法案』の差分断片が継続審議されています」

「どうせ党ドクトリンに弾かれる。いつものことだ」

俺はテープをコンベアに戻そうとして、やめた。作業台の隅に置かれた、年代物の再生機にそれを押し込む。ガチャン、と重い音がした。

モニターに映ったのは、砂嵐の向こうの、色褪せた映像だった。どこかの家の庭で、父親らしき男が子供を肩車している。母親が笑いながら手を振っている。音声はない。ただ、無音の幸福がそこにあった。

作業台の脇には、昨日ポストに入っていたスーパーの折込チラシが丸めて置いてあった。『たまご1パック98円』。そんな紙切れを休憩中に眺めるのが、俺のささやかな楽しみだった。

その時、視界の隅にポップアップ通知が点滅した。

【第0x29A8C内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は現在時刻より5分間です】

またか。忘れた頃にやってくる、意味のない役割だ。
続けて、一枚の稟議書がAR表示される。

『議案番号8932: アナログ記録物再評価に関する手続きの限定的承認』

「……健太」

「ドクトリンへの準拠率は34%。通常なら非承認が推奨されます。しかし、署名アルゴリズムの脆弱性パターンBeta-7を適用すれば、閣議決定は承認可能です。システムに警告ログが残るリスクがあります」

弟の冷静な分析が、脳に直接響く。モニターの中では、肩車された子供が空に手を伸ばしていた。健太をバイクの後ろに乗せた、最後の日を思い出す。あいつは、俺の背中を叩いて、空を指差していた。

俺は、何も言わずに『承認』のボタンに指を伸ばした。

5分後、俺はただの仕分け作業員に戻っていた。何も変わらない。承認された差分断片なんて、何十万とあるユニットの中の、ただの点だ。やがてノイズに紛れて消える。

そう、思っていた。

『通達。仕分け基準が更新されました。アナログ記録媒体は、一時保留レーンへ転送してください』

天井からの合成音声。いつもと同じ、感情のない声。だが、その内容が違っていた。

ゆっくりと、目の前のベルトコンベアが動きを変える。俺が掴んだテープと同じような、ラベルのない遺物たちが、溶解炉とは別の方向へ流れていく。

俺は手の中のテープを握りしめた。ずしりとした重さ。それは、ただのプラスチックと磁性体の塊じゃない。誰かの失われた時間が、熱を失わないまま、ここにある。

夜明けは、まだ遠い。だけど、ほんの少しだけ、この工場の空気が暖かくなったような気がした。