夜明け前の不整合、鐘の音だけが正しい

──平成0x29A年12月11日 04:40

 凍てつくような冷気が、本堂と呼ぶにはあまりに無機質なサーバールーム兼礼拝所を支配している。壁に掛けられたプラスチック製のアナログ時計が、カチ、カチ、と乾いた音を立てていた。秒針が一番上を向き、短針が四と五の間、長針が八を指す。
 午前四時四十分。定刻だ。
 私は祭壇の中央に鎮座した、分厚いブラウン管テレビの電源を入れた。静電気を帯びた画面がブーンという低い唸りを上げ、数秒の遅延ののち、今日の供養対象である「故人ID:0x8F22...」の遺影――生前のSNSアイコン画像――を映し出した。走査線のノイズが、若い女性の笑顔を小刻みに揺らしている。

『浄、襟が曲がっとるぞ』
 脳内で父の声が響いた。私のエージェントであり、この寺の先代だ。
「誰も見てないよ」
 私は独り言のように呟きながら、スマートグラスの位置を指で直した。レンズ越しに、薄暗い堂内へARの祭壇装飾が重畳される。安っぽい金色の蓮華と、極彩色の光輪。平成末期の葬祭カタログからランダムに選ばれたスキンだ。

『ただいまより、第402ヘゲモニー期・党ドクトリン準拠、データ昇華の儀を執り行います』
 耳元の骨伝導スピーカーから、AI秘書の合成音声が流れた。彼女は寺務管理システムのインターフェースだ。私は数珠を擦り合わせ、読経――実態はアーカイブ転送のための音声認証コードの詠唱――を始めた。

 しかし、スマートグラスの視界に赤い警告灯が明滅した。
『エラー。党ドクトリン署名検証に失敗しました。当該データのハッシュ値は、現行の倫理規定アルゴリズムと0.02パーセントの不整合を起こしています』
 読経を止める。AI秘書が事務的に続ける。
『処理を中断しますか? 承認なき昇華は、ブロックチェーン上の記録欠損扱いとなります』

 私は溜息をついた。まただ。数日前の内閣ユニット再編で、古い画像データの圧縮形式に関する解釈が微妙に変更されたらしい。この故人のアイコン画像に使われている古いJPEG規格が、今の党の「美的ドクトリン」に引っかかっているのだ。
『なんじゃ、またお上の気まぐれか』
 父が呆れたように言う。
『昔はハンコひとつで済んだもんを、いちいち暗号だの署名だの』
「そのハンコをもらうために、数十万のユニットが並列計算してるんだよ」

 私はスマートグラスのメニューを操作し、再申請を試みた。しかし、結果は同じだ。不整合。このままでは、彼女の魂(ログ)は正規のアーカイブ霊園に送られず、未処理領域に浮遊することになる。
 アナログ時計の秒針が進む。四時四十五分になれば、定時のシステムメンテナンスが始まり、今日の枠は消滅する。

『おい、浄。鐘を鳴らせ』
 父が言った。
「鐘? そんなことしても、認証は通らないぞ」
『構わん。仏なんぞ最初からネットワークにはおらん。ここにいるのは、送ってやりたいという我々の気分だけだ。形式が合わんのなら、音で送ればいい』

 一理ある、と私は思った。この世界の厳密さは、時に滑稽なほど融通が利かない。だが、我々がエミュレートしている「平成」という時代は、もっと曖昧で、適当な優しさに満ちていたはずだ。
 私はAI秘書の警告表示を視界の隅に追いやった。
「エラーのまま続行。ローカル保存で構わない」
『承知しました。ただし、公的な供養証明は発行されません』
「いいさ。誰も困らない」

 私は読経を再開し、傍らの鐘(おりん)を叩いた。チーン、と澄んだ音が、ファンの唸るサーバールームに染み渡る。ブラウン管の中で、ノイズ混じりの笑顔が一瞬だけ明るくなった気がした。
 スマートグラスには「処理未完了」の文字が残ったままだが、私は数珠を仕舞い、テレビの電源を落とした。ブツン、と光が消え、ただの灰色のガラスに戻る。
 時計を見上げる。四時四十五分。今日もまた、世界は少しだけ計算が合わないまま、朝を迎える。