充電残量と、停まったままの浮橋
──平成0x29A年07月15日 10:30
午前十時半。渡し場の待合ベンチに座って、私はMDプレーヤーのホールドスイッチを解除した。
ヘッドホンから流れてくるのはスピッツの古い曲。叔母が生前よく聴いていたディスクで、ケースの背に油性ペンで「あきこセレクト」と書いてある。ガム型の充電式ニッケル水素電池は昨夜スタンドで満タンにしたはずなのに、液晶の電池マークがもう半分になっていた。
目の前には渡河用の浮橋——正式には第14水運ブロック管轄の「仮設連絡橋K-7」が、川面にぴたりと張りついたまま動かない。橋というより、連結式の浮体パネルが対岸までずらりと並ぶ構造だ。通常なら午前九時に接続シーケンスが完了して歩行者と小型車両を通すのだが、今日はパネルの継ぎ目がところどころ開いたまま、赤い規制灯がゆっくり明滅している。
「——梗概、出てる?」
こめかみの脳波UIに意識を向けると、叔母の声が応答した。
『出てるわよ。差分リクエスト0714-K7、浮橋接続手順の安全閾値変更。第0x3AE12内閣ユニットに回ってるけど、閣議がまだ署名してない。党ドクトリン側の整合チェックで引っかかってるって』
「昨日も同じ理由で四十分遅れた」
『三日前は一時間十五分。私が記録してるんだから間違いないわ』
叔母——柿崎明子。享年五十一。乳がん。元タクシー会社の配車係で、数字と時刻に異様に強かった。エージェントになっても、その几帳面さは健在だ。
私は柿崎拓海、二十九歳。この浮橋の現場管理補助員。仕事は単純で、浮橋の接続が完了したら渡河者の整列誘導をし、切断時にパネル上に人が残っていないか確認する。ただ橋が繋がらなければ、やることは何もない。
待合ベンチには私の他に十人ほど。対岸の商業区へ通勤する人たちだ。隣に座った中年の男性がガラケーを開いて天気予報を確認し、その画面の端にサブスクの音楽広告がiモード風のバナーで点滅している。
頭上で低い唸りがした。自律警備ドローンだ。銀色の筐体が待合エリアの上空をゆっくり旋回している。滞留人数が閾値を超えたのだろう、規制灯とは別の黄色い警告灯を腹部から川面に投射し始めた。
『ドローン、滞留警告出してるわね。十二人以上で自動通報よ。拓海、誘導アナウンスしたほうがいいんじゃない?』
「橋が動かないのに、どこに誘導するんだよ」
『上流の仮設渡船。片道四十分かかるけど』
誰もそっちを使いたがらない。私だって使いたくない。だが署名がいつ降りるかは、五分交代の総理大臣たちの手元にある暗号鍵と、三百年前の亡霊みたいなアルゴリズムの気分次第だ。
MDのスピッツが「ロビンソン」に変わった。叔母の選曲は、いつも切なさの配分が絶妙だった。
電池マークが一目盛りに減っている。
私は脳波UIでもう一度ステータスを引いた。差分リクエスト0714-K7、署名保留中。保留理由:ドクトリン照合タイムアウト。
アルゴリズムの解読が進んでいるという噂は、こんな現場にいても耳に入る。解読されかけているから照合が壊れている。壊れているから橋が繋がらない。橋が繋がらないから私たちは座っている。
『拓海。電池、もたないわよ』
「わかってる」
叔母はため息のような処理音を出した。
川面を見た。パネルの隙間から、七月の光がちらちらと水底を照らしている。継ぎ目はあと数センチ閉じれば渡れる幅だった。数センチ。たったそれだけの差分に、誰かが鍵を回すのを、私たちは待っている。
MDが電池切れで止まった。ヘッドホンから音が消えると、川のさざ波だけが残った。
その静けさのなかで、ふと思った。
叔母が生きていたら、きっとこう言う。「四十分の渡船でいいじゃない、歩きなさい」と。エージェントの叔母は、それを言わない。提案はするが、決めない。決められない。
——死んだ人は、背中を押せないのだ。
私はベンチから立ち上がり、上流の渡船乗り場への道を歩きはじめた。後ろで、ドローンの警告灯がひとつ消えた。