真鍮の汚れ、磁気の重み

──平成0x29A年09月07日 02:20

 ジャラジャラと、不機嫌な金属音がバックヤードに響く。洗浄機の中で詰まった真鍮の円盤を、俺は細いピンセットでこじ開けた。指先にこびりつく、独特の鉄臭さと黒い脂汚れ。平成をエミュレートしたこの街で、最も「平成」を感じるのは、このゲームセンターのメダルかもしれない。

「慎一、あんまり深追いしなさんな。指詰めでもしたら、次の倫理検査で私が怒られるんだからね」

 右耳のデバイスから、お袋の——エージェント・ヨシエの——小言が飛んでくる。享年六十八、スナックのカウンター越しに客を捌いていた頃の、少し枯れた声だ。

「分かってるよ。でも、メダル貸出機の同期が取れないと、フロアのホログラム掲示が『準備中』のまま動かないんだ。党のドクトリンが、物理在庫とデジタルツインの整合性をうるさく言ってくるからな」

 壁面には、青白く光るホログラムが「第402ヘゲモニー期・安定稼働中」という文字列を淡々と流している。午前二時二十分。店内の客はまばらだが、一人、大型のメダル競馬ゲームに興じている常連の「サトウさん」が問題だった。

 サトウさんのデジタルツイン——つまり、この店における彼の『アカウントの化身』が、さっきから筐体の椅子をすり抜けて床に膝まで埋まっている。実体の方は、ただぼんやりと画面を見つめているが、システムが彼を「存在しないユーザー」として処理し始めていた。

「慎一、リクエストが来たよ。第0x2A91F内閣ユニットからだ。署名は……例のアルゴリズムだね。差分断片は『個体識別情報の再定義』。あぁ、面倒くさい。これ承認しないと、そのお客さん、店からつまみ出されるよ」

 お袋が空中に操作パネルを展開する。そこには、複雑に暗号化された行政プログラムの断片が並んでいた。今の日本を回しているのは、五分間だけランダムに選ばれた誰かと、その背後で動く巨大な自動ドクトリンだ。

「再同期をかける。お袋、バックアップの磁気を開けろ」

 俺は作業台の引き出しから、一冊の「通帳」を取り出した。見た目は古臭い銀行の通帳だが、中には高密度の磁気ストライプが仕込まれている。デジタルツインの同期がズレた際、最後に正常だった状態を強制的に書き戻すための、この店独自の非公式なバックアップ・メディアだ。党のアルゴリズムが解読され始めた今、こうした「物理的な重み」を持つデータの方が信頼できる場合がある。

 読み取り機に通帳を通すと、ジジジ、とレトロな印字音がした。サトウさんのデジタルツインが、一瞬激しくノイズを発し、次の瞬間には正しく椅子に座り直した。同期成功だ。

「よし、承認署名を送ったよ。ったく、たかだか遊びのデータ一つ守るのに、なんで死んだ母親まで動員されなきゃいけないんだか」

 お袋は愚痴を言いながらも、エージェントとしての義務を果たしてログオフした。静かになったバックヤードで、俺は再びメダル洗浄機に向き合う。ピンセットで弾き出した最後の一枚は、ひどく黒ずんでいた。

 ふと、モニターを見る。サトウさんは、同期が直ったことにも気づかず、無表情にメダルを投入し続けている。彼が手にしているメダルは、さっき俺が洗浄機から出した実体なのか、それともシステムが生成した仮想現実なのか。彼自身、自分の肉体とデジタルツインの区別がついているのだろうか。

 俺は汚れた指先を、作業着のズボンで拭った。布越しに感じる皮膚の温度と、鼻を突く真鍮の匂い。その生々しさだけが、この平成0x29A年の深夜、私が確かにここにいるという唯一の署名のように思えた。

 洗浄機を再起動する。またジャラジャラと、安っぽい音がバックヤードを満たした。それは、どこか遠い時代の心音のようにも聞こえた。