ハンダの煙と、解読された残響

──平成0x29A年05月28日 00:20

「おい、蓮。その基板、ちょっと浮いてるぞ。ハンダのノリが甘いんだよ」

耳元で、死んだはずの爺さんの声がする。自動翻訳イヤホンのノイズに混じって、九条徳次郎の、ヤニ臭い声が。実際には爺さんにハンダ付けを教わった記憶なんてない。俺が生まれる前に、爺さんは町工場の火災で死んでいる。これはアーカイブされた人格データを元に生成された「近親人格エージェント」が吐き出す、それらしい台詞に過ぎない。

深夜0時20分。第88文化ブロックにある「電子遊戯場・ミカド」の隅で、俺はPS2の実機――をエミュレートした最新の非接触筐体――の裏側を覗き込んでいた。足元では、巨大なカブトガニのようなロボ清掃員が、虚しく床の光沢を磨き上げている。

「分かってるよ、爺ちゃん。これは接触不良じゃなくて、システム側の『味』なんだよ。平成のゲームは、たまにバグるのが正解なんだ」

店の奥では、時代遅れのFAX機がガタガタと音を立てていた。他ブロックの遊戯場から、今週のハイスコア表が送られてきているのだ。この平成エミュレート社会では、情報はあえて「不便な媒体」を通すことで価値が保証される。それが党ドクトリンの教えだ。

突然、目の前のモニターが激しく明滅した。ブラウン管特有の走査線が乱れ、iモード風のメニュー画面が歪む。そこには、本来なら見えてはいけない緑色の文字列が滝のように流れ落ちていた。

「……なんだこれ。生コードか?」

『警告:党ドクトリン・暗号署名アルゴリズムの露出を検知。差分リクエストを生成中』

視界の端に、心拍数を上げる通知がポップアップする。同時に、俺の意識が強制的に並列処理の深層へ引きずり込まれた。耳元のイヤホンから、爺さんの声ではない、無機質な合成音声が響く。

【第0x5F1A内閣ユニット、内閣総理大臣に任命されました。任期は300秒です】

最悪だ。バグの修正依頼が、閣議決定として俺の元に回ってきた。目の前の筐体に表示されているのは、この社会を支える「党」の署名アルゴリズムそのものだ。今、この瞬間に俺が「承認」を押せば、アルゴリズムは再暗号化され、この綻びは消える。だが、画面に流れるコードをよく見ると、そこには無数の「継ぎ接ぎ」の跡があった。

「これ、見てみろよ蓮。このコードの書き方、俺が昔直したラジオの回路図にそっくりだ」

爺さんのエージェントが、懐かしそうに呟く。アルゴリズムの深層には、300年分の場当たり的な修正が、地層のように積み重なっていた。それは完璧な知性による統治ではなく、名もなき誰かが必死に繋ぎ止めてきた、不格好な「維持」の記録だった。

「直すべきかな、これ。直したら、もう二度とこの『味』は出ないよ」

「……蓮。壊れてるからって、全部新しくすりゃいいってもんじゃない。その傷があるから、電波が届くこともあるんだ」

任期終了まであと10秒。俺は「非承認」を選択した。差分リクエストは破棄され、筐体の画面には露出したアルゴリズムが、バグったゲームの一部として定着した。明日には、誰かがこれを「隠しコマンド」だと喜ぶかもしれない。

総理の権限が剥奪され、意識がゲーセンの薄暗がりに戻る。FAX機が最後の紙を吐き出した。そこには、掠れた文字で『平成0x29A年 継続承認』とだけ記されていた。

「お前も、案外頑固だな」

爺さんの笑い声がイヤホンの奥で消える。俺はハンダごてを置き、ロボ清掃員の進路を空けるために一歩下がった。壊れかけのシステムの上で、俺たちの平成は、今夜も静かに続いていく。