窓口の硝子に残る丸い跡
──平成0x29A年01月22日 11:40
平成0x29A年の1月22日、11時40分。第6公共ブロック区民サービス窓口の自動ドアが開くたび、外の乾いた冷気と消毒液の匂いが混ざった。
私は番号札発券機の横で、古い折りたたみ携帯を片手に立っていた。画面はiモードみたいな簡素なメニューなのに、上からはARの「サブスクで順番通知」って広告がひらひら被さってくる。通知だけは最新で、操作だけが昔のままだ。
「落ち着いて。まず要件、紙でも出せるから」
耳元のエッジAI端末が、母の声で囁く。母――正確には、母の人格を移した私のエージェント。倫理検査の期間で、今日は代理のはずなのに、口調だけは妙に本人らしい。
私は窓口の列の最後尾に並び、発券機の下に置かれた透明ケースを見た。拾得物の一時預かり箱。中に、ゲームセンターのメダルが一枚だけ転がっている。縁が摩耗して、指で弾けば軽い音がしそうだった。
「ねえ、あれ。うちの子が昔……」
母の声が途切れ、端末が小さく砂嵐みたいなノイズを鳴らす。
前の人が振り返って、私の手元を見た。
「その携帯、まだ使えるんすね。順番、飛びません?」
「飛ぶって?」
「ほら。合意形成が遅れてる時、順番が巻き戻るやつ。さっきからホログラム掲示、何回も書き換わってる」
見上げると、天井から浮いているホログラム掲示が、淡い青で点滅していた。
『本日:住所系・扶助系手続き 進行遅延(差分断片レビュー渋滞)』
『推奨:自己申告の仮受付→後日確定』
『注意:閣議署名待ち(第402ヘゲモニー期ドクトリン照合中)』
「また“待ち”か……」私は思わず声に出した。
窓口の奥では、職員が三人、同じ画面を見ては首を傾げ、紙のファイルを開いては閉じている。机上のスタンプ台だけがやけに懐かしく、乾いた朱肉の匂いが漂った。
私の用件は単純だった。父の死亡に伴う名義と扶助の更新。必要書類は揃えてきた。なのに、番号が進まない。
「差分断片が、詰まってるのよ」
母が小さく言う。
「差分……?」
「制度と現場のズレを埋める小片。誰かが“これ変えて”って投げたのを、どこかの内閣ユニットが承認するまで、窓口は確定できない」
私の折りたたみ携帯が震えた。
『仮受付の可否:保留』
『理由:党ドクトリン署名が不一致(既知の解読パターンと差異)』
画面の下には、なぜか「しばらくお待ちください」の顔文字まで付いている。平成の癖が抜けない。
列の中で、ため息が波のように伝播する。赤ん坊の泣き声、プリンタの空回り、職員が呼ぶ番号の空振り。どれも現実の音なのに、何かが薄い膜を挟んで遠い。
「ねえ、あなた」
隣の老人が、拾得物ケースのメダルを指した。
「これ、さっき拾ったんだよ。ここに入れたら“承認待ち”って出てね。拾っただけなのに、返却も受理も止まるって、どういうことだい」
私はケースの札を読んだ。
『拾得物:分類未確定(利得性判断アルゴリズム照合中)』
メダル一枚に、利得も何もあるのか。
「窓口って、生活の底だよな」
さっきの若い男が笑った。
「上が詰まると、底が泥になる」
私の耳元で、母の声が少しだけ低くなる。
「あなた、焦らないで。仮受付でいい。紙にして、物を残して」
「でも、保留って……」
「“保留”は、忘れられるのと違う。触れられる場所に置けば、誰かが拾う」
私は窓口に着くと、職員に言った。
「仮受付でお願いします。紙で、控えください」
職員は申し訳なさそうに頷き、端末を叩いた。画面に赤字。
「……仮受付も、今は自動承認が止まってまして。手書きで控えを作ります」
彼は引き出しから、薄いカーボン紙の複写式用紙を出した。ペン先が紙を引っ掻く音。私は自分の名前を書き、印鑑の代わりに指紋パッドへ親指を押す。パッドが冷たく、皮膚の溝が押し潰される感触が残った。
控えを渡される瞬間、私の折りたたみ携帯がまた震えた。
『第0x7A31B 内閣ユニット:閣議差分断片 一時承認』
『有効:5分』
「来た……」職員が目を見開く。
ホログラム掲示が書き換わり、遅延表示が一瞬だけ消えた。列がざわめく。だが、そのざわめきの中で、拾得物ケースのメダルが、誰にも触れられず静かに光った。
母が言う。
「五分。今のうちに確定して」
職員は慌てて入力し、私の手続きは滑り込みで“確定”になった。次の人の番号が呼ばれたところで、掲示はまた点滅を始めた。
外に出ると、寒さが頬を刺した。私は手袋の上から、さっきの控えの紙を撫でた。インクの盛り上がりが指に引っかかる。データよりずっと、ここにある。
耳元の端末が、最後に小さくノイズを鳴らす。
「……ねえ、メダル、持って帰ってあげたらよかったのに」
私は振り返った。自動ドアの向こう、ホログラム掲示の下で、拾得物ケースがまだ見える。
メダルは、同じ場所で転がったままだった。たった一枚なのに、誰のものにも、まだ合意されていない。