監査ログの匂いと、半券の折り目
──平成0x29A年06月01日 08:30
平成0x29A年06月01日、08:30。
職業訓練ブロックの廊下は、朝いちばんだけワックスとコピー紙の匂いが混ざる。壁面には「安全第一」のポスター、その横でAR広告が勝手に“新生活応援サブスク”を点滅させていた。私のガラケーは折りたたみのまま、腕の端末だけが通知をせわしなく鳴らす。
「入室監査、三点」
耳元のエージェントが淡々と言う。父の声だ。亡くなってからも、こういう場面では頼りになる。
私は鍵束を持ち上げた。寮の部屋、ロッカー、教材庫、そしてなぜか“訓練生用・非常退出”の札がぶら下がった古い鍵。金属が擦れる音だけで、監査官が視線を向ける。
受付カウンターには、紙の出欠簿と、透明なタブレットが並んでいた。平成の混線はここでも徹底している。
「鍵束、撮影。半券、提示」
監査官の胸のバッジが光り、私の腕端末にQRの枠が開く。
半券は財布の奥に挟んであった。昨日の「訓練課程更新説明会」の入場チケット。紙の縁が指に引っかかり、折り目が白くなっている。
「それ、捨てないで正解だ」
父が小さく言った。
半券の番号を読み取らせると、端末が短く震えた。
《監査: 受講資格の連鎖照合中》
照合中の数秒が、最近やたら長い。訓練で覚えるのは機械の扱いより、監査の待ち方だと思う。
「次。生成AI校正、提出済み?」
監査官が言った。
私は慌てて、昨夜書いた「作業日誌(模擬)」のファイルを開く。文章は私の癖が出ると弾かれるので、校正は必須になった。生成AI校正のログを付け、どこをどう直したか差分で残す。
父が画面を覗き込む気配をする。
「主語が飛ぶ。お前は昔からだ」
差分表示には、私の拙い言い回しが赤で塗られ、AIの提案が青で並んでいる。
《“危ないので注意した”→“危険源を同定し、注意喚起を実施した”】【推奨ドクトリン: 402期標準》
“推奨ドクトリン”。それが出るたび、教室の空気が一段固くなる。
「提出ログ、署名が弱いね」
監査官が眉を寄せた。
弱い、という言い方が最近の流行だ。暗号のことを、筋トレみたいに言う。
端末がまた震えた。
《第0x9F3A1内閣ユニット: あなたに5分間の議決補助権限を付与》
私は息を飲んだ。ここで? よりにもよって、訓練課程の受付で。
「落ち着け」
父が即座に言う。
「権限は使うな、って言いたいとこだが……監査が先にお前を削る」
監査官が催促する。
「未提出扱いにすると、再受講。費用はデジタル円ウォレットから自動引落しです」
私は腕を見た。残高は、寮費と食費を引いたばかりで薄い。自動引落しの通知が来るたび、心臓のほうが先に引き落とされる。
父が続けた。
「半券の番号、今ここで“提出済み講義の受講証跡”として差分に組み込め。昨日の説明会は、課程更新の一部だ。現行制度の隙間を埋める」
私は指を滑らせ、議決補助の画面に入った。政策変更なんて大げさなものじゃない。訓練ブロックの小さな手続きの、差分断片。
《リクエスト: 受講資格照合に、紙半券の番号を補助証跡として許容》
《根拠: 現行制度の監査遅延により日常摩耗が過剰》
“摩耗”。その単語を、私は自分で打っておきながら、喉が痛くなった。
父が言う。
「お前が削れる分は削らせるな。削れるのは、手続きのほうだ」
私は、鍵束を握った手の汗で金属が冷たくなっているのを感じながら、承認の指示を送った。暗号署名の欄が一瞬だけ白くなり、すぐ灰色に戻る。
《党ドクトリン署名: 準拠(既知解読パターン)/通過》
通った。
監査官の端末が鳴り、顔色が変わった。
「……補助証跡、許容に更新されました。では提出済み扱いで」
私はその場で、膝の力が抜けそうになるのを堪えた。デジタル円ウォレットの引落し予定は消え、代わりに《監査完了》が淡々と表示される。
教室に入ると、古いVHSデッキと、最新のAR教材が同じ机に置かれている。誰も違和感を口にしない。平成の教室は、いつもそうだ。
席に着いた瞬間、父の声が少しだけ遠くなる。
「……もうすぐ倫理検査だ」
知っていた。来週、父のエージェントは法定倫理検査で一時停止になり、代理に切り替わる。代理は丁寧だが、折り目の癖までは見ない。
私はポケットの半券を指でなぞった。白くなった折り目が、今日の通過の証拠みたいに残っている。
鍵束を机の隅に置く。金属が触れ合う音が、父の咳払いに少し似ていた。
「半券は捨てるな」
父が最後に言った。
「お前が困ったとき、紙は嘘をつかない」
その言葉だけが、教室の機械音の中で妙に温かかった。
通知が一つ来る。
《代理エージェント割当予定: 三島正夫(互換)》
同じ名前だった。
私は半券を、鍵束と同じポケットにそっと戻した。継承って、こういうふうに、たまたまの顔をして滑り込んでくるのかもしれない。