半券のざらつき、量子署名待ちの廊下
──平成0x29A年01月11日 10:00
平成0x29A年01月11日、十時きっかり。
監視庁舎の入退館ゲートが、今日はやけに喉を鳴らす。ガラス越しに、ロボ清掃員が床の白い線をなぞっていく。ブラシの回転音は一定なのに、時々だけ、吸い込みが空振りするみたいに軽くなる。
「遅いねえ」
耳元の骨伝導が、ため息を混ぜた。
祖母の人格エージェント──田口カズエ、享年七十六。転倒のあと、眠るみたいに亡くなった人だ。生前みたいに、私の襟元の乱れまで気にする。
私は監視庁舎の二階、証跡室の受付に座っている。仕事は簡単だ。現場から上がってくる“差分断片”を、物として保管できる形にして、内閣ユニットの審議列へ流す。
簡単なはず、だった。
今朝は「現場映像の保存期間を一日延ばす」だけの差分が、ずっと未決のまま詰まっている。廊下の向こうに、証拠袋の山。透明な袋の中には、押収したCD-Rが何十枚もある。銀色の面が蛍光灯を反射して、目がちかちかする。
「CD-Rなんて、焼くから遅いのよ。サブスクでいいじゃない」
祖母が言う。
「サブスクだと改ざんできるって、現場がうるさいんだよ」
私は、机の上の古いMDプレーヤー型端末を指で叩いた。形だけ平成で、中身は監視庁舎の専用回線にぶら下がっている。
端末の画面には、赤い文字。
【量子署名: 待機中】
【党ドクトリン適合判定: 未確定】
差分断片を“正式”にするには、上からの署名が要る。ここでは皆、量子署名と言う。実際に量子かどうかは、私にはわからない。でも、これが付かない限り、CD-Rのラベル一枚すら発行できない。
待機列の番号が伸びるたび、別の内閣ユニットで誰かが五分だけ総理になっているはずだ。けれど、私たちの差分はどのユニットにも拾われない。合意形成が遅れている、というより、どこで合意するのかが薄れている。
廊下に足音が来て、止まる。
制服の巡回員が一人、証跡袋を抱えていた。胸のカメラは赤ランプのまま点滅している。
「田口さん、これも。…あと、これ」
彼は袋の上に、紙切れを置いた。
チケットの半券だった。
角が少し丸く、指の油で黒ずんでいる。印字は薄いが読める。
【平成ライブ ’09/立見】
「現場で拾いました。監視カメラの死角の、床の継ぎ目に挟まってて」
巡回員は言いにくそうに続ける。
「それと…その死角の映像、保存期間が切れてて見れません。延長の差分が通ってないから」
私は半券を指でつまんだ。紙がざらついて、爪の先に引っかかる。
祖母が、小さく笑った。
「そんな紙、まだ残ってるのね。あんたも昔、チケット握りしめて並んだじゃない」
「並んだのは、祖母ちゃんの話だろ」
「そうだっけ」
端末が一度だけ、低く振動した。
【署名候補: 第0x1F3A2 内閣ユニット】
【量子署名: 失敗(衝突)】
衝突。別のどこかで、同じ差分に別の解釈が重なったのだろう。画面の赤が、さらに濃くなる。
ロボ清掃員が受付前まで来た。私の足元で止まり、半券をじっと見上げるようにセンサーを向ける。次の瞬間、吸い込み口が開いて、紙に風が当たった。
「ちょ、待って」
私は反射的に手を引いた。半券は吸われず、指の腹に貼り付いたまま残る。ロボ清掃員は何事もなかったように旋回し、廊下の白線へ戻っていった。
巡回員が苦笑する。
「紙は異物判定が甘いんですよね。昔の仕様のまま」
私は、半券を証跡袋の上に置き直した。CD-Rの冷たい光の上に、紙の体温が乗る。
「これ、証拠ですか」巡回員が聞く。
「証拠…に、する」
私は言い切れなかった。署名が付かなければ、ただの拾得物だ。
祖母が、いつもより静かな声で言う。
「半券ってね、入った証明でもあるし、入れなかった証明でもあるのよ。切り離された側は、いつも誰かの手元に残る」
私は端末の“再送”を押す。差分断片の束が、見えない審議列へまた流れていく。
画面は相変わらず赤い。
廊下の遠くで、別のゲートが開閉する音がした。誰かが出入りした、ただそれだけの音。
私の指先には、さっきの紙のざらつきが残っている。
量子署名の有無より確かなものが、こんなところにあるのが、少し怖かった。