夕刻の稲穂、合意は三日待つ

──平成0x29A年02月19日 18:50

夕方の六時を過ぎても、第7農業ブロックの育苗温室はまだ暑い。俺は額の汗を拭いながら、タブレットに表示された「カーボンクレジット台帳同期エラー」の赤文字を睨んでいた。

「また止まったのか」

耳元のイヤホンから、父さんの声が聞こえる。父さん——正確には、父さんの人格を移植されたエージェント——は、生前と同じように淡々としている。享年は六十三。農薬散布中の熱中症だった。

「ああ。今週三回目だ」

俺の仕事は、この温室で育てた苗を各ブロックの水耕プラントに配送する手配をすることだ。だが、苗一本ごとにカーボンクレジット台帳への記帳が義務付けられていて、その署名承認が内閣ユニットのどこかで詰まっている。承認が下りなければ、自動運転シャトルは動かない。苗は温室で伸び続け、出荷タイミングを逃す。

「また党ドクトリンの署名が遅延してるんだろう」

父さんは呆れたように言った。

「だろうな。でも、どの内閣ユニットが詰まってるのかも分からねえ」

温室の隅に置かれた自動運転シャトルの充電ステーションには、MDプレイヤーとサブスク端末が並んでいる。同僚の趣味だ。平成エミュの混線は、こういうところに出る。俺自身、ガラケーとARグラスを併用している。

タブレットを操作しながら、俺はため息をついた。苗の出荷予定は明日の朝。このままでは間に合わない。

「深夜ラジオでも聴いて気を紛らわせたらどうだ」

父さんが提案する。生前、父さんは夜中の農作業中によくラジオを流していた。俺も真似して、イヤホンから流れる深夜ラジオを聴きながら作業することがある。今夜もそうするつもりだった。

「それどころじゃねえよ」

俺は温室の外に出た。夕暮れの空気は少しだけ冷たい。敷地の片隅に、妙なものが置いてある。プリクラ機だ。

誰が持ち込んだのか知らないが、数ヶ月前から温室の横に鎮座している。平成エミュの一環なのか、誰も撤去しようとしない。俺も気にしていなかった。

ふと、プリクラ機の画面が点灯しているのに気づいた。普段は消えているのに。

近づいてみると、画面には「第0x4A2B7内閣ユニット 閣議決定待機中」という文字が表示されている。

「……は?」

俺は画面を凝視した。プリクラ機が、内閣ユニットの端末になっている?

「父さん、これ見てくれ」

「ほう。面白いな」

父さんの声は、少し楽しそうだった。

画面を操作すると、カーボンクレジット台帳の承認待ちリストが表示された。俺の温室の苗も、そこに含まれている。承認ボタンは灰色で、押せない。党ドクトリンの署名が必要らしい。

だが、画面の隅に小さく「手動承認モード」というリンクがある。

俺はそれをタップした。

すると、画面が切り替わり、「第0x4A2B7内閣ユニット 内閣総理大臣権限 有効時間: 残り4分38秒」という表示が現れた。

「……マジか」

俺は、ランダムで選ばれた5分間の総理大臣になったらしい。しかも、プリクラ機を通じて。

「承認しろ」

父さんが即座に言った。

「でも、党ドクトリンの署名は——」

「アルゴリズムは解読されてる。お前も知ってるだろ」

父さんは正しい。俺も噂で聞いている。党ドクトリンの暗号は、もう半ば公然の秘密だ。

俺は承認ボタンを押した。

画面が一瞬フリーズし、それからゆっくりと「承認完了」の文字が表示された。

タブレットを確認すると、カーボンクレジット台帳のエラーが消え、自動運転シャトルの予約が通っている。

「やった」

だが、その直後、プリクラ機の画面に新たな通知が現れた。

「他ブロックからの承認リクエスト: 1,247件」

俺は絶句した。

「父さん、これ全部——」

「お前の権限で承認できる。残り時間は三分半だ」

俺は慌ててスクロールした。水耕プラント、物流ハブ、エネルギー配分、医療物資……全国のあらゆる承認待ち案件が、このプリクラ機に集まっている。

「全部は無理だ」

「優先順位をつけろ」

父さんの声は冷静だった。

俺は、自分の温室と関連する水耕プラントの案件を優先して承認していった。次に、医療物資。それから物流ハブ。

残り時間は一分を切った。

最後に、俺は画面の一番下にあった案件を見つけた。

「第12居住ブロック 深夜ラジオ放送継続承認」

俺は、思わず笑った。

「これも承認するか」

「お前らしいな」

父さんも笑っているように聞こえた。

俺は承認ボタンを押した。

画面が消え、プリクラ機は再び沈黙した。

俺は温室に戻り、タブレットを確認した。自動運転シャトルは明日の朝、予定通り出発する。

「父さん、俺たち、何をやったんだろうな」

「さあな。でも、苗は届く」

俺はイヤホンから流れる深夜ラジオの音を聴きながら、温室の電気を消した。

夕刻の空は、まだ少しだけ明るかった。