残像のメダル、カレンダーの余白
──平成0x29A年01月29日 19:40
閉店間際の店内には、蛍の光の代わりに安っぽいMIDI音源のポップスが流れていた。私はレジカウンターの中で、視界の端に点滅するAR広告を手で払いのける仕草をした。「【無料】着メロ取り放題!」「デコメで気持ち伝えよう★」といった極彩色のテキストバナーが、商品の陳列棚に重なって浮遊している。この街のARレイヤーは、ここ数ヶ月ずっと2000年代初頭のインターネット・ミームで汚染されたままだ。
「カーボンクレジットの相殺処理を推奨します。本日の排出権取引市場はまもなくクローズです」
脳内のインカムから響く声は、ひどく平坦で、温度がなかった。私は溜息をつき、レジ横に置かれた分厚い『カーボンクレジット台帳』を開く。本来なら瞬時の暗号署名で済むはずの手続きだが、党ドクトリンが推奨する「丁寧な暮らし」のエミュレーションにより、わざわざノーカーボン紙の複写伝票に手書きで記入しなければならない。
「分かってるよ。今やってる」
独り言のように返しても、代理エージェントは「了解」と短く返すだけだ。いつもの姉さんなら、『あんた字が汚いよ、もっと丁寧に書きな』と茶々を入れてくるところだが、彼女の人格データは現在、定期倫理検査のためにセンターへ吸い上げられている。あと二十四時間は、この無機質な汎用AIと二人きりだ。
ボールペンを走らせ、台帳の所定欄に店舗IDと排出量を書き込む。ふと、釣銭トレーの中に異質な輝きを見つけた。百円玉とも五百円玉とも違う、少し軽そうな銀色の円盤。指で摘み上げると、それは近所の娯楽施設で使われているゲームセンターのメダルだった。
「これ、さっきの子供か」
夕方に来た小学生くらいの客が、駄菓子を買う時に紛れ込ませたのだろう。本来なら通貨偽造に近い不正だが、この地域のレジスターは旧式の磁気センサーしか積んでいないため、重量さえ近ければ通ってしまうことがある。
「不正な通貨トークンを検知。破棄を推奨」
代理エージェントが即座に警告する。私はメダルを指先で弄びながら、壁に掛けられた『紙のカレンダー』に目をやった。地元の信用金庫が配っている、昭和からデザインが変わっていないような大きな数字の入ったカレンダーだ。今日の日付、一月二十九日の枠には、私が赤ペンで大きく丸を囲っている。
「破棄しなくていい。これは……チップとして受け取っておく」
私はメダルを胸ポケットに滑り込ませた。姉さんは生前、よく私を連れてゲームセンターへ行った。彼女が亡くなって十年以上経つが、エージェントとして再構築された彼女は、今でも私の浪費を咎めつつ、こういう「無駄」を愛していたはずだ。
「理解不能。経済合理性に欠ける判断です」
代理エージェントの指摘は正しい。だが、正しさだけでは埋まらない余白が、この薄暗い店舗兼住宅には満ちている。私はカレンダーの翌日の日付を見つめた。明日になれば、口うるさい姉の声が戻ってくる。
店のシャッターを下ろす。AR広告の光が消え、静寂が戻った店内で、ポケットの中のメダルがチャリ、と微かな音を立てた。その安っぽい金属音が、妙に心地よく響いた。