深夜二時の赤、あるいは光磁気ディスクの円環
──平成0x29A年04月18日 02:00
深夜二時。ビニールハウスの静寂を破ったのは、およそこの時代には不釣り合いな、しかし耳に馴染んだ電子音だった。
「キュイーン……」
PlayStation 2の起動画面。暗闇の中で、無数の光の粒が空間を漂い、やがてブラウザ画面へと収束していく。これが我が農場の、それも『紅ほっぺ・平成リバイバル種』を管理する制御システムの正体だ。
「健太、またメモリーカードの端子が埃を噛んでるぞ。ふーふーして挿し直せ」
視界の端、透過ディスプレイに表示された義父の顔が、苦笑いを浮かべて言った。大野茂。享年六十七。頑固なイチゴ農家だった義父の人格を移植した、私の近親人格エージェントだ。法定倫理検査を先週終えたばかりで、声の解像度がやけに高い。
「義父さん、今は令和……じゃなくて平成0x29A年ですよ。ふーふーしなくても、量子乱数ロックが同期すれば読み込みますから」
私は端末の脇にあるスロットを軽く叩いた。この農場のシステムは、八十年前の『社会安定化最適化』の結果、平成初期から後期のデバイスが入り混じったエミュレーション環境で動いている。党ドクトリンのアルゴリズムによれば、この時代のUIが最も人間の生産意欲を維持するらしい。
私は作業机の引き出しから、古びた写真の現像袋を取り出した。黄色い袋の端には「24枚撮り・当日仕上げ」の文字。中に入っているのはネガフィルムではなく、パッチデータが焼かれた八センチのDVD-Rだ。この中に、党中央から配布された今期用の「糖度向上アルゴリズム」の差分が入っている。
「今の若い奴は、何でも自動で済むと思ってる。昔はな、この現像袋を預けるとき、どんな写真が撮れてるかワクワクしたもんだ。今の閣議決定リクエストと同じさ。何が承認されるか、現像してみるまで分からん」
義父の言葉を適当に聞き流しながら、私はディスクをトレイに乗せる。読み込みのシーク音が、深夜のハウスに響く。
その時、視界が真っ赤に点滅した。
【緊急:第0x82A1内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒】
「げっ、またかよ」
「運がいいな健太。ほら、エージェント補佐を起動しろ。署名アルゴリズムの準備はできてる」
義父の声が、一瞬で「AI秘書」としての実務トーンに切り替わった。私は慌てて、PS2のコントローラーによく似た操作系を握りしめる。
流れてくるリクエストは、どれもこれも退屈な差分断片だ。『東京都港区におけるガラケー通信帯域の0.02%拡張』、『標準色「平成ベージュ」の定義変更』。私は義父の推奨に従い、次々と暗号署名を付与していく。
だが、最後の一件で指が止まった。
『リクエストID:PX-902 食糧生産ブロックにおける「土の匂い」成分のデジタル消臭、および合成香料への置換承認』
「これ……」
「党ドクトリンの最新トレンドだ。土の匂いは、平成エミュレートにおける『不快なノイズ』と判定されたらしい。承認すれば、お前の仕事も少しは清潔になるぞ」
義父の声は平坦だったが、その背後のシミュレーション思考が「非承認」を望んでいるのが分かった。義父は土を愛していた男だ。だが、エージェントである彼は、党のアルゴリズムに反する助言を直接口にはできない。
私は、量子乱数ロックの認証キーを入力した。署名欄ではなく、却下欄に。残り時間は十秒。
「……よし」
暗号化された連鎖システムが私の判断を呑み込み、総理大臣の権限は霧散した。五分間の統治が終わる。
「馬鹿な奴だ。効率が落ちるぞ」
義父の顔が、元の少し意地悪そうな笑みに戻った。私は何も答えず、ディスクの読み込みを終えたPS2の電源を切った。ハウスの奥では、LEDの光を浴びたイチゴたちが、不自然なほど鮮やかな赤色を湛えている。
私は手袋を脱ぎ、足元の土をひと掴み、指先でこねた。湿った、鼻を突くような、生々しい腐葉土の匂いが立ち上がる。システムが「ノイズ」と断じた、この世界の歪みそのものの匂いだ。
「現像してみないと分からない、か」
私は現像袋にディスクを戻し、ポケットに突っ込んだ。デジタル化された統治の隙間で、私の指先だけが、真っ黒に汚れていた。