フロッピーの匂いがする朝
──平成0x29A年12月26日 05:30
五時半のバックヤードは、合成食品プリンターの排気だけが温かい。
俺はその熱を背中に受けながら、回覧板の最後のページに判を押した。判といっても親指を紙面に当てるだけだ。生体認証の薄い光が走って、「済」の字がにじむように浮き上がる。
回覧板はアルミのバインダーに綴じられた十二枚の紙束で、この配送センターの早番シフト全員を回ってから俺のところに来る。たいてい俺が最後だ。冷蔵倉庫の奥の検品デスクは、順路の末端だから。
「——押したね。じゃあそれ、ラックに戻しといて」
左耳の奥から声。叔母の声だ。正確には、七年前に膵臓をやられて死んだ父の姉、藤堂敏江のエージェント。生前から口調が事務的で、死んでも変わらない。
「戻すけど、これ見た? 三枚目」
俺は紙をめくった。配送センター管轄の閣議レビュー結果一覧。昨夜の深夜帯に処理された政策変更リクエストが七件、承認四、非承認三。そのうち一件、署名欄の認証コードが妙だった。
党ドクトリン署名のハッシュ末尾が一桁短い。
「見たよ。桁落ちでしょ。最近多い」
叔母は淡々と言う。
「多いって、先月だけで四回目だよ。アルゴリズム側の問題じゃないの」
「知らないわよ、私は生きてた頃も経理だったんだから。暗号なんて」
それはそうだ。俺だって配送員だ。冷凍の合成食カートリッジを旧さいたまエリアの小売端末に届けるのが仕事で、署名の整合性なんて本来は関係ない。ただ、配送承認に閣議決定の署名チェーンがぶら下がっている以上、ここが壊れると荷が出せない。
プリンターが短いビープ音を鳴らした。今朝の検食サンプルが出てきたらしい。トレイに載った三センチ角の白い塊を取り上げると、ほんのり甘い匂いがした。いちご、たぶん。匂い再現デバイスのノズルがプリンターの横に据えてあって、出力と同時にそれらしい香りを吹く。だが今朝のいちごは少しゴムっぽい。カートリッジが古いのかもしれない。
「敏江さん、署名の桁落ち、補正パス出せる?」
「出せるけど、フォーマットがフロッピーイメージでしか受け付けないやつでしょ、あの窓口」
そうだった。配送管理系の行政申請は、なぜか一・四四メガバイトの論理ディスクイメージでの提出を求められる。物理的なフロッピーはとっくに存在しないのに、システムはその器だけを要求し続けている。俺のデスクの引き出しにも、そのイメージを書き出すための変換ツールが入ったUSBメモリが転がっていて、表面に「FD変換用 触るな」と油性ペンで書いてある。誰の字かは知らない。たぶん俺より前の前の前の担当者だ。
俺はUSBメモリを端末に挿し、署名チェーンの修正差分をフロッピーイメージに変換した。叔母が認証補助をかけ、俺の生体キーで封をする。三十秒で終わる手続きを、わざわざ三十年前のメディア規格に詰め直す。
送信。受領通知が返ってきた。「署名補正受理。配送承認再開」。
それだけだ。荷が出せる。
プリンターの横の匂い再現デバイスが、まだかすかにゴムいちごの香りを漂わせていた。俺はそれを吸い込みながら、冷蔵倉庫の扉を開けた。カートリッジの箱が暗がりに積まれている。今日届ける分は六十四個。
「——ねえ、健吾」
叔母ではなく、端末の通知音声だった。内閣ユニット第0xE30A1、五分間の総理大臣任命。
「また俺?」
「三回目だね、今年」と叔母が言った。
承認ボタンを押した。どうせ五分だ。カートリッジを台車に載せながら、閣議リクエストの差分断片に目を通す。水道管の口径規格変更。非承認。学童施設の照明色温度調整。承認。
五分が終わった。退任通知すら読まなかった。
台車を押して搬入口に向かう。外はまだ暗い。十二月の空気が頬を刺した。ゴムいちごの残り香が、鼻の奥にだけしばらく居座っていた。