雨どいの下、ブラウン管が映す宛名

──平成0x29A年05月09日 22:40

ベランダの物干し竿にかけたビニール傘が、風でくるくる回っている。透明じゃなくて、白濁したやつ。祖父ちゃんが生前よく持ってたのと同じ型だ。

「裕介、回覧板の件、まだ返してないよ」

耳の奥で祖父ちゃんの声がする。宮本辰雄、享年七十三。元・集合住宅の管理人。死んでからのほうが管理人らしい仕事をしている気がする。

俺は居間のCRTモニターの前に座って、団地の自治会ポータルを開いていた。ブラウン管特有の高周波が微かに鳴っている。画面の端にはiモード風のメニューバー。その横に、サブスクの音楽配信の通知が点滅している。どっちの時代のものかなんて、考えたこともない。

問題は回覧板じゃなかった。

今朝、棟の共用廊下を掃除していたロボ清掃員が、三階の非常階段踊り場で止まったまま動かなくなった。管理組合の規約では、故障したロボ清掃員の一時撤去は「住民代表の閣議承認済み政策変更リクエスト」を経由しないとできないことになっている。つまり、内閣ユニットの承認が要る。

踊り場に掃除機が一台転がっているだけの話なのに。

「昔はさ、管理人室から電話一本で業者呼んだもんだけどね」

祖父ちゃんが言う。俺もそう思う。でも今はそうなっていない。

CRTの画面にリクエストフォームを呼び出す。差分断片の記述欄に「B棟三階踊り場・清掃ロボ撤去許可」と打ち込む。テンキーでぽちぽちやるから遅い。隣の部屋から、階下の住人が風呂場で歌うカラオケの低音が壁を伝ってくる。

送信しようとしたら、量子署名の認証画面が出た。

『第0x7A2F1内閣ユニット・臨時閣議 内閣総理大臣:宮本裕介(22:41:03〜22:46:03)』

俺だった。

「おっ」と祖父ちゃんが笑った。「総理大臣じゃないか」

五分間。画面には党ドクトリンのアルゴリズム署名欄が並んでいる。ロボ清掃員の撤去リクエストは、俺自身が出したものだ。俺が出して、俺が審査する。

署名鍵を呼び出す。ドクトリンの暗号は、もう半分以上の住民が解読済みだという噂を聞いたことがある。実際、祖父ちゃんのエージェント経由で補佐パネルを開くと、承認に必要なハッシュ値がほぼ平文で表示された。

「通していいのかね、これ」

「自分で出したやつを自分で通すの、なんか変だけど」

「変だけど、規約はそうなってるからねえ」

署名ボタンを押した。CRTが一瞬ちらついて、承認済みの緑色の文字が画面に滲んだ。

残り三分二十秒。他にリクエストは来ていない。静かな閣議だった。

ベランダの方で、ビニール傘がまた風に煽られてばさりと音を立てた。物干し竿から落ちたらしい。

「拾ってきなよ」と祖父ちゃんが言う。

「任期中だから」

「掃除ロボが止まってるのと同じだよ。規約がどうとか言ってないで、拾えるものは拾いな」

二十二時四十六分。任期が切れた。

俺はサンダルをつっかけてベランダに出た。五月の夜風が湿っぽい。落ちたビニール傘を拾い上げると、柄のところに祖父ちゃんの名前が油性ペンで書いてあった。宮本辰雄。丸っこい字。

「……これ、祖父ちゃんのだったのか」

耳の奥で、少しだけ間があった。

「ああ。よく忘れてたからね、名前書いといたんだ」

三階の踊り場で、ロボ清掃員が低い駆動音を立てて動き出す気配がした。承認が通ったのだろう。CRTの高周波と、雨どいを伝う水滴の音が重なった。

傘の柄を握ったまま、俺はしばらくそこに立っていた。油性ペンの字は、かすれてはいたけれど、まだ読めた。