零時五十分、送電網の微睡
──平成0x29A年04月08日 00:50
深夜のシフトは嫌いじゃない。
旧多摩エリア第七変電所の中央制御室は、俺以外誰もいない。モニターの青白い光だけが、机の上の乾電池の山を照らしている。予備電源用だ。メイン系統が落ちたとき、この乾電池で旧式の非常灯とラジオを動かす。平成エミュってやつの名残で、本当はもっとスマートな手段があるはずなんだが、システムが「これが最適」と判断したらしい。
「裕也、送電ライン4-Bに微弱なノイズが検出されています」
母さんの声が、耳元のイヤホンから流れてくる。正確には、母さんのエージェントだ。
「了解。波形見てみる」
俺は端末を操作する。画面に表示される電力フローのグラフは、ほぼ平坦だ。ノイズと言っても、誤差の範囲内に見える。
「気にしすぎじゃない?」
「いいえ。このパターンは……」
母さんの声が少し震える。エージェントが感情を出すのは珍しい。
「どうした?」
「ごめんなさい、裕也。私、少し混乱しているみたい」
俺は椅子から立ち上がった。エージェントが混乱する理由は二つしかない。倫理検査の時期が近いか、何か深刻なバグだ。
「倫理検査、いつだっけ?」
「来月の予定です。でも……これは違う気がします」
机の隅に積んであるVHSテープが目に入る。変電所の過去ログを記録したものだ。デジタルデータは暗号署名が必要で面倒だから、物理メディアにバックアップを取る習慣が残っている。俺は一本手に取り、ラベルを確認する。「H0x296-4B系統異常記録」。三年前のものだ。
「母さん、三年前も同じノイズがあった?」
「……ええ。そうね。あったわ」
声のトーンが変わった。まるで、何かを思い出したかのように。
俺はエッジAI端末を起動する。変電所に配備されている旧式の解析機だ。ネットワークに繋がっていないから、党のドクトリンアルゴリズムの監視外で動く。端末にVHSテープのデータを流し込み、当時の波形と今のノイズを比較する。
一致した。
「母さん、これ……」
「裕也、送電網の奥に何かいるの」
エージェントが、そんなことを言うはずがない。母さんは生前、電気技師だった。合理的で、データしか信じない人だった。
「何かって?」
「わからない。でも、ノイズの中に……誰かの遺伝子パターンが混ざってる気がするの」
遺伝子パターン。それは、天皇制を維持するために社会全体に薄く分散された遺伝子ネットワークのことだ。普段は誰も意識しない。必要なときだけ、認証や儀礼のために参照される。
でも、送電網に遺伝子情報が混入するなんて、ありえない。
俺は端末の解析結果を凝視する。ノイズの波形は、確かに生体リズムに似ている。心拍のような、呼吸のような。
「これ、報告すべきかな」
「……やめておきなさい」
母さんの声が、急に冷たくなった。
「どうして?」
「党のドクトリンが、これを『最適』と判断したら……あなたも、私も、消されるかもしれない」
俺は息を呑んだ。母さんのエージェントが、こんなことを言うなんて。
窓の外を見る。自動運転シャトルが、無人のまま変電所の敷地を巡回している。定期点検のルートだ。いつもと同じ光景。何も変わらない。
でも、送電網の奥で、誰かが微睡んでいる。
俺はエッジAI端末の電源を切った。VHSテープを元の場所に戻す。乾電池の山を見つめる。いつか、メイン系統が落ちる日が来るのかもしれない。そのとき、この乾電池で何を照らせばいいんだろう。
「母さん、もう寝ていいよ」
「ええ。おやすみなさい、裕也」
イヤホンから母さんの声が消える。
制御室は、また静寂に包まれた。モニターの青白い光だけが、俺の影を壁に映している。
送電網の奥で、誰かが眠り続けている。