ガス検針票の裏、あなたの分散座標
──平成0x29A年03月09日 05:10
三月九日、午前五時十分。
まだ暗い公園のベンチに座って、あたしはPS2のコントローラを膝の上に載せていた。本体はベンチの脚元に置いてある。電源は入っていない。ただ重くて四角くて、こうしていると落ち着く。
隣で佐久間くんが缶コーヒーを開けた。プシ、という音が妙に大きく響く。
「寒くない?」
「平気」
嘘だった。三月の早朝の公園は容赦なく冷える。ブランコの鎖が風に揺れて、きい、と鳴る。街灯がひとつだけ点いていて、あたしたちの足元にオレンジ色の楕円を作っている。
左耳の奥で、姉さんが言った。
『で、いつ言うの』
黙れ。
『朝になっちゃうよ。始発来るよ』
姉さん——三條つかさ、享年二十四、交通事故。あたしの六つ上。生きてたときも余計なことばかり言う人だったけど、エージェントになってからは輪をかけてうるさい。
「ねえ、これ見て」
佐久間くんがポケットからくしゃくしゃの紙を出した。ガス検針票だった。
「先月分。ポストに入ってたんだけど、宛名が俺じゃないんだよね」
街灯の下で目を凝らす。宛名の欄には六十四桁の英数字がびっしり並んでいて、その下に小さく〈分散ストレージ参照先:ノード未解決〉と印字されていた。
「最近多いらしいよ、これ。居住データの参照先が分散側で腐ってて、検針システムが宛名引けないまま印刷だけする」
「平成っぽく紙で届けるところだけは律儀なんだ」
「そう。届けるけど届かない」
佐久間くんは笑った。あたしも笑った。
実際、この手の不具合はどこにでもある。平成の生活様式をエミュレートしろというドクトリンの指令と、裏側で走っている分散ストレージの実装が噛み合わない。ガス検針票は紙で届く。でも参照先はブロックチェーンの海の底にあって、ノードが応答しなければ名前すら表示されない。
「俺さ、昨日これの修正リクエスト出したんだよ。差分断片で」
「え、自分で?」
「窓口行くの面倒だし。フォーマットはエージェントに聞いた。でも量子署名が要るって蹴られた」
『量子署名なんか、いまどき鍵パターン三つ試せば通るのに』と姉さんが呟く。それはそうなんだけど、公然の秘密を口にするのと実際にやるのとでは話が違う。
「佐久間くんのエージェント、誰だっけ」
「じいちゃん。元ガス屋」
「……だからガス検針票が気になるんだ」
「かもね」
沈黙が降りた。ブランコがまた、きい。
PS2のコントローラのスティックを親指でぐるぐる回す。これは姉さんのだった。生きてた頃、二人でこの公園に持ち出して、延長コードを街灯の根元から引っ張って『サルゲッチュ』をやった。今は本体の映像端子に合うテレビが見つからないから、ただの箱。
でも佐久間くんが「見たい」と言ったのだ。あたしのPS2。
『ほら、ちゃんと持ってきたんだから。言いなよ』
東の空がほんの少し白み始めている。佐久間くんはガス検針票を丁寧に折り直して、また胸ポケットにしまった。宛名のない手紙みたいに。
「あのさ」
「うん」
「あたし、佐久間くんのこと好きだよ」
言ってしまった。声が公園の砂利に吸い込まれた。
佐久間くんは缶コーヒーを一口飲んで、ゆっくりこちらを見た。
「……知ってた。じいちゃんが言ってた」
「は?」
「お前のエージェントのログ、うちのじいちゃんのノードと同じ分散ストレージに載ってるらしくて。断片が混ざるんだよ、たまに」
左耳の奥で姉さんが、あ、とだけ言った。
あたしはPS2を抱え直した。四角くて、重くて、冷たい。朝が来る。ガス検針票の宛名はまだ解決されていないけれど、あたしの言葉はちゃんと届いたらしかった。