乱数ロックの隙間から

──平成0x29A年06月06日 17:40

定時。モニターに表示された「平成0x29A年06月06日 17:40」の文字を視界の端で捉えながら、俺は慣れた手つきでシステムコンソールの起動シーケンスを走らせた。

「交代です、早川さん」

隣の席のオペレーターが、コーヒーカップを片手に俺の横を通り過ぎる。ディスプレイの隅で、ユビキタスセンサー網から送られてくる膨大なデータが、緑色のグラフとなって無機質に波打っていた。旧立川エリア広域監視センターの夜間帯は、いつもこんな調子だ。静かで、どこか非現実的。

『陽介、今日の引き継ぎはいつもより多いぞ。区画03のセンサーに微細な乱れが確認されている』

鼓膜の奥で、父の声が響いた。早川芳雄、享年58。父はベテランのシステムエンジニアで、今も俺のエージェントとして、脳内に移植された人格プログラムで俺を補佐している。システム障害対応中の事故死だった。皮肉なものだ。

「分かってる、父さん。見てるよ」

区画03。ディスプレイ上の地図がズームアップされ、旧国立エリアの駅前広場が映し出される。AR広告が宙を舞い、人々が忙しなく行き交う中に、妙な挙動が散見された。横断歩道の信号が、なぜか数秒おきに点滅している。広場に設置された自動ドアが、誰もいないのに開閉を繰り返している。

『党ドクトリンのアルゴリズムが、また何か変な更新を吐き出したのか。最近、特に不安定だ。量子乱数ロックが、微妙に同期ズレを起こしている可能性が高い』

父の分析は的確だった。第402ヘゲモニー期に入ってから、党ドクトリンは末期症状だ。かつて絶対だった署名アルゴリズムは、半ば公然と解読され、奇妙なバグや予測不能な挙動を引き起こす。システム安定に最適と判断されたはずの「平成エミュ」も、こうして時折、その綻びを露呈する。

俺はコンソールのサブ画面を開き、区画03の個別システムへの手動介入を試みた。しかし、量子乱数ロックのわずかな同期ズレが、命令の伝達を阻む。

「指示が通らない。現場に連絡を……ポケベル?」

俺は思わず声に出した。画面に表示された緊急連絡先のリストに、なぜかポケベルの番号が点滅している。誰かが急ぎで入力したのか、それともシステムが古いプロトコルを引っ張り出してきたのか。平成エミュの混線だ。

『ああ、その方が確実だ。今の党ドクトリンは、デジタル信号に余計なノイズを乗せるからな。肉声か、あるいは旧式のシンプルな信号の方が届きやすい』

父が言う。俺はポケベル端末を取り出し、表示された番号を入力し、簡単なコードメッセージを送った。しばらくして、現場の警備員から「了解」の返信が、カタカナ数文字で届いた。懐かしい。こんなものがまだ現役だとは。

警備員が現場で手動で信号機を制御し、自動ドアの電源を落とし始める。モニターの混乱度が少しだけ下がった。完全な復旧には時間がかかるだろうが、これで一時的な大混乱は避けられる。

『しかし、見てみろ陽介』

父の声に促され、俺はモニターの駅前広場を凝視した。信号の点滅で動けなくなっていた人々が、警備員の指示で互いに声を掛け合い、譲り合って横断歩道を渡っている。自動ドアが閉まったコンビニの前では、店員が手動でドアを開け、客が笑顔で感謝を述べている。

そこには、デジタルでは捉えられない、人間同士の微かなつながりがあった。乱数ロックが作り出した、予期せぬ「隙間」だ。

『……我々が守ろうとしているのは、このシステム自体じゃない。このシステムの隙間から、彼らが見せる「生活」そのものだ』

父の言葉に、俺は無言で頷いた。ポケットを探り、自宅の量子乱数ロックに対応したスマートキーと一緒に、なぜか捨てられずに残している物理的な「家の鍵の束」を指でなぞる。ガチャガチャと音を立てる鍵たちが、まるで父の言葉に呼応するように、微かに存在を主張していた。

不完全なシステムが、時に人間らしい助け合いを誘発する。そんな夜もあるのだと、俺はぼんやりと思った。視界の隅では、内閣ユニットの通知が忙しなく点滅しているが、今はそちらを見る気にはなれなかった。

明日もまた、この乱数ロックの隙間に、何が生まれるのだろうか。