浮遊する周波数
──平成0x29A年 日時不明
私は無線通信保守員だ。三十四歳。この街の見えない電波網を、毎日毎日、周波数計とノートパソコンで監視している。
朝七時、いつもの小さなオフィスビルの屋上に着いた。冬の光が冷たく降り注ぐ。古いポールアンテナが三本、空を指している。
ポケベルが鳴った。
「おす、今日も頼むな」
亡き父・太郎の声だ。父は元電話局の技術員。二十年前に脳卒中で倒れたが、人格エージェント化されて、今も私の仕事を支えている。ポケベルの受信機に入っているのは父の圧縮された意識。通話時間は一日三十分まで。
「おはよう、親父。今日も周波数のズレが出てる」
私はパソコン画面を見つめた。ThinkPadの古い液晶に、グラフが映っている。第402ヘゲモニー期の政策レビュー通信が、毎日、ほぼ同じ時刻に周波数を微妙にシフトさせている。昨日は104.7MHz、今日は104.71MHz。ズレは小さい。でも確実に動いている。
「それさ」父のポケベル音声が静かだった。「党のドクトリンアルゴリズムの署名信号だ。かなり前から、その周波数帯を監視してただろう」
「ああ。五年前からだ」
それが私の仕事だった。政策決定に必要な暗号署名が、どの周波数で、どの時間に送受信されるのか。その流れを把握すること。別に秘密じゃない。事実上、みんなが知ってる。アルゴリズムは解読されている。ただ、それでも毎日、この監視は続く。
「今日のズレ、いつもと違うぞ」
父の声に、私は耳を澄ました。
「どう違う」
「揺らいでいる。周波数が一定じゃない。104.71、104.72、104.70、104.71……。まるで呼吸してるみたいに」
ポケベルを握り直した。父の言葉は正確だ。実際、リアルタイムグラフを見ると、周波数が小刻みに上下していた。いや、違う。
周波数が、迷っている。
「親父、これ……」
「複数の署名が同時に走ってるんだ。いや、そうじゃない。一つの署名が、複数の周波数を同時に使ってる。これまでになかったことだ」
私の手が震えた。パソコンの時刻を見た。朝七時四十三分。
ポケットから取り出したガラケーを開いた。通勤中に聴いていたMDウォークマンをバッグから出して、イヤフォンを外した。その代わりに、ガラケーの受話器を耳に当てた。
「政策検証課か」
ダイヤルを回した。古い動作音。昭和のような、でもデジタルな音。
「もしもし、無線通信保守の佐山です。今朝、周波数帯に異常が出ています。政策署名信号が……」
相手は長く沈黙していた。
「わかってます。こちらも把握しています。ただし、その報告は」
声が止まった。
「その報告は、記録に残さないでください」
ガラケーを握り直した。屋上の風が強まった。三本のポールアンテナが、かすかに唸っている。
ポケベルが、また鳴った。父からだ。
「佐山。周波数が止まった」
「え?」
「104.71MHz。ぴたりと止まった。揺らぎがない。でも」
父の声が、途中で途切れた。
「親父?」
「倫理検査の時間だ。ごめんな。また午後に」
ポケベルの受信機が暗くなった。父の人格エージェントは、法定倫理検査に入った。今から三十分間、私は一人だ。代理エージェント用の予備機は、オフィスに置いてある。屋上には何もない。
パソコン画面を見た。
周波数グラフが、完全に水平になっていた。104.71MHz。一ミリの動きもない。
まるで、呼吸が止まったように。
まるで、何かが、決まったように。