神域のレガシーコード
──平成0x29A年04月11日 06:30
夜明け前の空気は、まだ冬の匂いを引きずっていた。石畳を踏む玉砂利の音だけが、拝殿に吸い込まれていく。
「正嗣。背筋が曲がっておるぞ」
網膜の隅に、半透明の祖父が仁王立ちしている。声は脳内に直接響く。私は息を吸い、姿勢を正した。檜の香りが肺を満たす。
『すいません、じいちゃん』
「神域では、祖父ではない。エージェント・イワオと呼べと、法定倫理検査で指導されたはずだ」
『はいはい』
祖父、朝霧巌は、この神社の先代宮司だった。今は私の近親人格エージェントとして、こうして日々、小言をくれる。ありがたいことだ。
大幣を手に、祓いの祝詞を奏上し始めたその時だった。ピコン、と静寂を切り裂く電子音。網膜にポップアップが浮かぶ。
【第0x8A39F内閣ユニット 臨時閣議招集】
【貴殿を5分間、内閣総理大臣に任命します】
またか。私は小さくため息をつき、儀式を中断した。祖父のエージェントが、呆れたように腕を組む。
「まったく、神事の最中に無粋なことだ。党の連中も、もう少し時と場所を考えられんのか」
『党に『連中』なんていないよ、じいちゃん。ただのアルゴリズムだ』
そう言いながら、私は拝殿の隅に置かれた座布団に腰を下ろした。視界に閣議のウィンドウが展開される。
今回の政策変更リクエストは一件。『神饌物(しんせんぶつ)データ管理における旧式物理媒体の利用特例に関する差分断片G-881』。長ったらしいが、要は古いやり方を続けていいか、という話だ。
ウィンドウの片隅には、党中央ドクトリンに基づく推奨判断が表示されている。『非承認』。理由は、セキュリティリスクと維持コストの増大。まったくもって、正論だ。
『じいちゃん、どう思う?』
「お前はどうしたい」
『……現場としては、承認したい。うちだって、いまだに神事の記録媒体の一部は、PS2のメモリーカードを使ってる。ブロックチェーン台帳だけじゃ、どうにも肌に合わないんだ』
「だろうな」
祖父はこともなげに言う。社務所の奥、神具を納める棚には、古いファミコンカセットやPS2のディスクが、桐箱に入った神宝と同列に並んでいる。祖父が遺した、ある種の「おまじない」だ。
参道の入り口に浮かぶ公共ARサインは、数秒おきに観光案内と企業の広告を切り替えている。世界はそうやって、目まぐるしく最適化されていく。だが、この神域の中だけは、時間の流れが違う。違っていてほしい。
残り時間は2分。私は『承認』のボタンに意識を向けた。システムが警告を発する。
【警告:党ドクトリン非推奨。承認には追加の暗号アルゴリズム署名が必要です】
「ほれ、あれを使え」
祖父が顎で示した先には、黒いプラスチックの塊があった。PS2のコントローラーだ。ケーブルは最新のインターフェースに変換されている。
『こんなアナログ入力で、署名が通るわけ……』
「いいからやれ。あのアルゴリズムはな、正しすぎる。だが、ほんの少しだけ、揺らぎを許容するよう組まれている。生前の私が、解析屋に頼んで見つけてもらった、古いバグのようなもんだ」
コントローラーを握る。プラスチックの感触が、ひどく懐かしい。十字キーとボタンを、祖父に教わった通りの順番で、教わった通りの間隔で押していく。それはまるで、祝詞を奏上する作法に似ていた。
画面上の署名欄に、複雑なハッシュ値が生成されていく。ブロックチェーンの向こう側で、誰かが同じように、名も知らぬ誰かの判断を待っている。
残り10秒。最後のボタンを押し込む。承認されたのか、弾かれたのか。システムからの応答はない。ただ、5分の任期終了を告げる通知が、静かに表示されただけだった。
私は立ち上がり、コントローラーを元の場所に戻した。そして、中断していた儀式を再開する。
「正嗣」
エージェントの声が、さっきより少しだけ、優しく響いた。
「……背筋が、伸びたな」
私は答えなかった。ただ、まだ夜が明けきらない神域に、祝詞だけを響かせた。それが、私が祖父から受け継いだ、たったひとつのものだったから。