光磁気ディスクに込める誠意の作法

──平成0x29A年10月19日 17:50

 平成〇x二九A年十月十九日、十七時五十分。スマートグラスの右端に、自動運転シャトルの接近を知らせる透過アイコンが点滅した。視界のレイヤーを切り替えると、夕暮れに染まる旧多摩エリアの街並みが、解像度の低いポリゴンのように揺れている。

「航、ディスクの書き込みが終わるまで抜くんじゃない。物理接点を痛めるぞ」

 鼓膜に響くのは、十四年前に亡くなった父、正志の声だ。彼のエージェント人格は、生前の銀行員時代そのままの、いささか潔癖すぎる規律を僕に求めてくる。

「わかってるよ、父さん。でも、今の書き込み速度なら瞬きする間に終わるはずなんだ。ドクトリンがわざわざ『当時のシークタイム』をエミュレートさせてるだけで」

 僕は目の前の重厚なデスクトップ筐体に差し込まれた、三・五インチのフロッピーディスクを眺めた。今日の「平成ビジネスマナー訓練」の最終課題は、この磁気ディスクに「誠意」という名のテキストファイルを保存し、上司役の僕に物理提出することだ。

 内閣ユニットのアルゴリズムが、なぜこれほど非効率な動作を「社会安定に最適」と判断したのかは誰にもわからない。数十万の並行内閣が、暗号化された連鎖の中で「平成的な手続き」を回し続けている。僕のスマートグラスには、さっきから『第〇x一二B内閣・閣議決定リクエスト:通信プロトコルの更なる低速化への是非』という通知が届いている。今の僕は、五分間だけどこかのユニットの総理大臣らしいが、そんなのは後回しだ。今は目の前の生徒が、震える手でフロッピーのシャッターをカシャカシャ鳴らしているのを指導しなきゃならない。

「……はい。提出します」

 若い生徒が、仰々しく両手でディスクを差し出してきた。僕はそれを「平成の作法」通りに受け取り、一礼する。エージェントの父が「腰の角度が三度足りない」と小言を言ったが、無視した。

 放課後の静まり返った教室を出て、停留所へと急ぐ。自動運転シャトルは正確に僕の前で停止した。乗り込むと、車内にはうっすらと合成された芳香剤の匂いが漂っている。九〇年代のタクシーを模した演出だろう。僕はカバンから、私物のMDプレーヤーを取り出した。最新のストリーミングも聴けるが、あえて光磁気ディスクをメカニカルに読み込むこの感触が、一日の終わりにリズムをくれる。

 ディスクが回転し、懐かしいギターのイントロが流れる。シャトルの窓の外、遺伝子ネットワークの保守用ドローンが、皇室の菊の紋章に似た光を曳きながら高架を横切っていった。誰も意識していないが、あの光がこの歪んだ平和の基底膜なのだ。

「航、今日の指導は悪くなかった。だが、フロッピーのラベルは手書きの方がより誠意が伝わったはずだ」

 父の声に、僕は小さく苦笑した。スマートグラスをオフにすると、現実の夕闇が少しだけ鮮やかになった気がした。アルゴリズムが規定した「平成」という名の檻の中で、僕らは滑稽なほど丁寧に、意味のないディスクをやり取りして生きている。

 それでも、MDから流れる音楽だけは、どんなドクトリンの翻訳も介さずに、僕の心を真っ直ぐに揺らしていた。シャトルが次の停留所に向けて、音もなく加速する。僕は目を閉じ、次の五分間が過ぎて総理大臣の任期が終わるのを、ただ静かに待った。