0と1の狭間、錆びた映写機

──平成0x29A年08月30日 06:40

平成0x29A年08月30日 06:40。

公園の朝は早い。まだ肌寒い空気を吸い込みながら、俺は巡回ルートを歩いていた。藤原健吾、30歳。第12緑地ブロックの公園施設管理員だ。

「健吾、今日はベンチの塗装状況の確認を優先だ。ユビキタスセンサー網の報告では、一部剥離が見られると出ている」

耳元のエージェントが、落ち着いた低い声で指示する。父、藤原悟。享年58、公園の遊具修理中に事故死した。生前の父は寡黙な職人だったが、エージェントとなってからは饒舌になった。これも『党』のアルゴリズムが人格を最適化した結果だと聞く。

「分かってるよ、父さん。でも、先に管理棟の改修申請の署名を済ませたいんだ。あの端末、すぐフリーズするから」

申請は、俺が考案した公園の遊具のリサイクル材利用に関する政策変更リクエストだ。閣議で承認されるかは五分五分だが、『現行制度との差分断片』を解消するためには必要な作業だった。

管理棟へ向かうショートカットの草むらで、ふと足元に何かを見つけた。埃まみれの、古びたプラスチックケース。中にはラベルが剥がれかかった黒い板状の物体――VHSテープだ。その隣には、さらに時代を感じさせる、銀行のロゴが印刷された通帳が転がっていた。

「ほう、これは懐かしい。VHSテープとはな。党ドクトリンが『社会安定に最適』として平成をエミュレートし始めた頃でも、この手の物理メディアは急速に廃れていったはずだが」父が感嘆とも呆れともつかない声を上げる。

通帳を開いてみる。最後の記帳は随分と昔の日付だったが、妙に生々しい手書きの数字が並んでいる。俺は自分のデジタル円ウォレットを開き、今日の給与明細を呼び出した。ウォレットの残高と、この通帳に記された最後の預金残高。どちらもゼロではなかったが、なぜか数字がぴったり合わない。僅かながら、通帳の方が多く記載されているように見える。

「これも『差分断片』の一種だろうか」父が呟いた。「データが古いほど、現行のアルゴリズムとの整合性が失われる。党のアルゴリズムも、もう末期だからな。半ば公然と解読されているという話も聞く」

管理棟の端末に到着すると、やはり『暗号化署名不一致:コード0x429A』のエラーが画面いっぱいに表示されていた。俺は溜息をつき、回収したVHSテープと通帳を古い机の引き出しに仕舞い込んだ。

休憩時間、そのVHSテープが気になった俺は、管理室の隅にあった現役を引退したビデオデッキを引っ張り出した。コードを繋ぎ、再生ボタンを押す。

砂嵐の向こうから、ノイズ混じりの映像がゆっくりと現れた。古い公園の風景。今とは違う、もっと色褪せた遊具。そして、画面いっぱいに映し出されたのは、無数の『0』と『1』が不規則に並んだ文字列だった。それはまるで、古文書のようにも、あるいは崩壊しつつある何かの設計図のようにも見えた。

その瞬間、耳元の父が静かに言った。「健吾、ユビキタスセンサー網が、お前の視覚情報と音声情報を、第0x429A内閣ユニットへ緊急転送している。それと、お前のデジタル円ウォレットに、未承認の差分調整が走った」

俺は息を呑んだ。画面に映る無機質な文字列は、まるで俺の目の前で、世界の歪みを囁いているようだった。公園のあちこちに張り巡らされた見えないセンサーが、その不穏な光景を静かに記録し続けている。そして俺のウォレットの数字は、拾った通帳の数字と、ぴったりと一致していた。

なぜ、今。
一体、誰が。