瓦礫の下のチェックサム

──平成0x29A年12月08日 13:40

管制室の巨大なスクリーンに、仮想首都の壊滅状況がリアルタイムで描画されていく。地鳴りのような重低音が床を揺らし、僕の座るコンソールのカップをかすかに震わせた。

「聡さん、第7区画の火災延焼速度、予測モデルより0.2パーセント速い。パラメータ確認して」

耳元のインカムから、妻だった美咲の声がする。彼女の冷静な声は、8年前に本物の瓦礫の下から聞こえた、か細い声とは似ても似つかない。

「了解。ログを掘ってみる」

僕は指先でコンソールをなぞり、膨大なシミュレーションログを呼び出した。データは各地の分散ストレージからリアルタイムで同期され、僕の目の前で文字列の滝となって流れ落ちていく。0.2パーセント。誤差と言えば誤差だ。だが、災害シミュレーションにおいて、そのわずかなズレが何千という仮想市民の生死を分ける。

美咲の指摘通り、特定の条件下でリソース配分の署名に微細な遅延が発生していた。救助ドローン、消火ユニット、医療班。すべてがほんのわずかずつ、最適経路から外れていく。

記憶補助アプリを起動する。古めかしいiモードサイトを模したUIが、コンソールの一角にポップアップした。文字だけの簡素な画面だが、過去数十年にわたる災害記録と、党ドクトリンの改変履歴がアーカイブされている。キーワード『署名遅延』『リソース配分』。検索結果が数件ヒットした。どれも原因不明のままクローズされた案件だ。

「また『ドルアーガの塔』? 聡さん、それ、クリアできないくせに」

美咲の声に視線を上げると、ホログラムの彼女がコンソールの隅に置いたファミコンカセットを指さしていた。金色に輝く、古ぼけたプラスチックの塊。気分転換に握りしめるだけの、僕のお守りだ。

「うるさいな。これは精神統一のためだ」

軽口を叩きながらも、僕の思考はログの深層へと潜っていく。そして、見つけてしまった。遅延の発生源。それはエラーやバグではなかった。党中央ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名そのものに、意図的に埋め込まれた条件分岐だった。

特定の遺伝子情報クラスターが密集する区画で、災害発生時に救助リソースの承認プライオリティを意図的に下げる。そういう記述だった。まるで、見捨てる順番をあらかじめ決めているかのように。

背筋が凍る。8年前、僕たちの住んでいた区画も、そうだったのだろうか。

その時、コンソールにけたたましい通知音が鳴り響いた。

【通達:第0x8C3A9内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です】

続けざまに、一通の閣議案件がディスプレイに表示される。

『件名:災害時リソース配分アルゴリズムの軽微な同期ズレ修正について』

差分断片をプレビューする。僕が今まさに発見した、あの忌まわしい条件分岐のコード。それを難読化し、さらに巧妙に隠蔽するためのパッチだった。修正理由には「処理効率の最適化」とだけ記されている。

「聡さん……」

美咲の声が震えていた。

「あの時と、同じだわ。救助が、ほんの少しだけ……遅れた」

そうだ。あの時、僕が自力で瓦礫を掘り起こし、彼女の手を掴んだ時にはもう、何もかもが手遅れだった。システムの『最適化』のせいで。

ディスプレイには『承認』と『非承認』のボタンが点滅している。非承認にすれば、この隠蔽は阻止できる。だが、訓練は緊急停止し、原因究明で大騒ぎになるだろう。僕はシステムの異端分子としてマークされるに違いない。

承認すれば、すべては闇に葬られる。平穏な日常が戻ってくる。誰かの犠牲の上に成り立つ、偽りの平穏が。

震える指が、どちらのボタンにも触れられないまま、宙を彷徨う。残り時間は、もうない。

時間切れを告げる無機質なブザーが鳴り、案件は自動的に『保留』ステータスへと移行した。判断は、次の誰かへと委ねられる。

コンソールの片隅に『ログ保全完了。分散ストレージ0xG7H9へ転送』という小さなメッセージが点灯する。あのコードは、まだシステムの中に生きている。瓦礫の下で、次の災害が起きるのを静かに待ちながら。