代理人格がめくる、空白のページ

──平成0x29A年12月11日 11:00

自動運転シャトルは、冬の低い太陽を反射しながら滑るように走る。僕は窓の外を流れる灰色のビル群を眺めていた。ポケットの中で、家の鍵の束がじゃらりと小さな音を立てる。物理的な重み。ここに帰るのだという、ささやかな証。

『次の停車駅は、第四セクター、マテリアル研究所前です』

耳の中に、合成音声が響く。代理エージェントだ。美咲のエージェントが法定倫理検査で停止されてから、もう三週間になる。通知にはただ「党中央ドクトリンのシステム的判断に基づき、一時保留」とだけあった。

シャトルを降り、研究所のゲートをくぐる。無機質な白で統一された長い廊下を歩き、自分のラボに入った。デスクの上には、昨日3Dプリンタで出力されたばかりの新型コネクタ部品が十数個、きれいに並べられている。

「今日のタスクは、コネクタ部品J-47bの強度検証。参照データはバインダー88-Cです」

代理エージェントが淡々と告げる。僕は頷き、棚から分厚いバインダーを引き抜いた。古い紙の電話帳みたいに、黄ばんだインデックスシールが何枚も貼られている。何世代も前の技術者が書き込んだ注意書きが、ページの端に今も残っていた。

『参照、P.432、項目ガンマ。複合材G-9の推奨積層ピッチは0.05ミクロンです』

「わかってる」

思わず、ぶっきらぼうな声が出た。美咲なら、こんな風には言わなかった。『ここの数字、ちょっとややこしいから気をつけてね』なんて、僕の集中力が切れそうなタイミングで、優しく囁いてくれたはずだ。

僕は顕微鏡を覗き込み、プリントされた部品の断面をチェックする。代理エージェントは正確に仕様を読み上げてくれるが、それだけだ。そこには雑談も、冗談も、僕を気遣うひと言もない。

昼休み、食堂で隣に座った佐々木さんが、声を潜めて言った。
「うちのオフクロのエージェントも、先週から検査停止なんだ。何が起きてるんだろうな」
「理由は?」
「わかるもんか。党のアルゴリズム様のご機嫌次第さ。最近、こういうの多いらしいぜ」

そうか、僕だけじゃないのか。少しだけ安堵したが、すぐにまた胸がざわついた。停止されたエージェントは、いつ戻ってくるんだろう。あるいは、もう二度と……。

午後の作業に戻る。僕は黙々と、電話帳のように分厚い仕様書のページをめくり、部品を計測し、データを入力し続けた。
ふと、美咲との最後の会話を思い出す。彼女が病室のベッドで、窓の外を見ていた時のことだ。大した内容じゃない。ただ、雲の形が犬に似ているとか、そんな話。

あの穏やかな時間が、今では僕の世界のすべてだった。

彼女は、昔から紙の本が好きだった。気に入ったフレーズがあると、ページの隅を小さく折る癖があった。大事な人の連絡先は、端末のアドレス帳とは別に、手帳にも書き写していた。

……まさか。

あり得ないとわかっている。この仕様書バインダーは研究所の備品で、美咲が触ったことなど一度もない。
それでも、僕は吸い寄せられるように、無意識にバインダーのページの隅を指で探っていた。ざらりとした紙の感触。折れ目など、どこにもない。

当たり前だ。何を探しているんだ、僕は。

『タスクに進捗が見られません。問題が発生しましたか?』

代理エージェントの無機質な声が、思考を遮る。

ああ、そうか。僕は気づいた。停止されたのは、美咲の人格データだけじゃない。僕が、彼女の思考の癖を、彼女の温もりを、現実の世界に探してしまう、この回路そのものが。彼女の不在によって、ゆっくりと機能停止しかけているんだ。