磁気カードの残数、微かなオゾン

──平成0x29A年06月16日 06:40

 平成0x29A年06月16日、午前06時40分。第12物流集積センターの湿度は、不快なほどに高かった。

「お兄ちゃん、また署名鍵がエラー。第402ヘゲモニー期のドクトリンに、今の配送順序が弾かれてるよ」

 右耳のデバイスから、妹の陽菜の弾んだ声が聞こえる。十九歳で心臓を止めた彼女の思考アルゴリズムは、生前よりも少しだけ効率を重視するようになっている。俺はガラケー型のハンディターミナルを叩き、党中央から降ってきた暗号署名を無理やり流し込んだ。

「……通った。ったく、閣議決定リクエストの差分が多すぎるんだよ。毎朝五分だけ総理大臣になる奴の気が知れない」
「しょうがないよ、それがこの国の回し方なんだから」

 陽菜がくすくすと笑う。視界の隅に、配送予定の巨大な筐体が鎮座していた。九〇年代に流行した『プリクラ機』の復元モデルだ。行き先は、仮想空間『メタバース広場』の物理演算サーバーを維持する中継局。デジタルの中の広場に、この物理的な機械を置くことで、「実在感」のノイズを付与するのだという。平成エミュレートの極致だ。

 突然、鼻をつく匂いがした。安っぽい煙草の煙と、埃、それから電子回路が焼けるようなオゾンの匂い。集積所の天井にある『環境匂い再現デバイス』が、どうやら故障したらしい。本来なら六月の朝に相応しい紫陽花の匂いを出すはずが、何を混線させたのか、数十年前のゲームセンターの悪臭を吐き出している。

「うわっ、ひどい匂い。お兄ちゃん、鼻のフィルタ設定を強めなよ」
「いや、いい。これ、懐かしい匂いだ」

 俺は作業の手を止め、休憩室の隅にある自動販売機へ向かった。そこには液晶画面も電子決済もなく、ただカードの挿入口がある。ポケットから取り出したのは、ボロボロになったテレホンカードだ。磁気層が剥がれかけているが、このセンターの旧式自販機ではまだ使える。度数が減るたびに、カードに小さな穴が開く。そのアナログな感触だけが、今の俺をこの世界に繋ぎ止めている気がした。

 ぬるい缶コーヒーを啜りながら、俺はプリクラ機の筐体に手を触れた。表面はひんやりとしていて、どこか無機質な墓石のようでもある。遺伝子ネットワークの同期が強まり、一瞬、体内の皇室遺伝子が微かに共鳴する感覚があった。雨が強まると、この「国民の連帯」の波が静かに押し寄せてくる。

「陽菜。この機械、本当は十年前にお前と撮りたかったんだ」

 不意に言葉が漏れた。エージェントとしての陽菜は、一瞬の沈黙を置いた。エージェントの倫理検査では「過度な感情移入の誘導」は禁止されている。代理エージェントに切り替わる前の、危うい沈黙。

「知ってるよ。あの時、お兄ちゃん、恥ずかしがってゲーセンの入り口で逃げたもんね」

 陽菜の声が、少しだけ潤んだように聞こえたのは、きっとデバイスのノイズのせいだろう。故障した匂い再現デバイスが、今度は放課後の教室のような、石鹸とチョークの匂いを混ぜ合わせ始めた。

「……ごめん。ずっと、言えなかったけど」

 俺は空になった缶をゴミ箱に放り投げた。テレホンカードの残数は、あと三度分しかない。配送のトラックが、雨のヴェールを切り裂いてプラットホームに入ってくるのが見えた。

「お前が死ぬ前に、一枚くらい、まともな写真を残しておけばよかった。フィルターなんてかかってない、ただの不細工な俺たちの顔をさ」

 耳の奥で、陽菜が「バカだなぁ」と笑った。その笑い声もまた、党ドクトリンのアルゴリズムに解析され、いつか純粋なデータへと収斂していくのだろう。俺はハンディを握り直し、雨の中へと足を踏み出した。