光る矢印と、書き換えられた避難経路

──平成0x29A年11月05日 17:40

 夕闇の空に、巨大な「←避難所」という公共ARサインが浮かび上がっている。2010年代の広告デザインをエミュレートした、目に刺さるような緑色の発光体だ。平成0x29A年11月05日、17時40分。第15防災ブロック、定期避難訓練の終了時刻まであと少しだった。

「成瀬様、MOディスクのバックアップが完了しました。イジェクトしますか?」

 耳元で、無機質な合成音声が響く。本来なら父さんの、少ししゃがれた小言混じりの声が聞こえるはずだったが、あいにく今週は法定倫理検査の期間だ。代理エージェントの「サポート・アルファ」は、僕の感情に配慮する機能を最小限に絞っている。

「ああ、出してくれ」

 手元のコンソールから、カシャッという懐かしい音を立てて光磁気ディスクが吐き出される。今どきMOなんて、と思うが、党ドクトリンの「平成中期・物理記録信頼性プロトコル」に基づき、災害データの保存はこれで行う決まりだ。僕はそれを胸ポケットにしまい、iPodのような形状をした記憶補助アプリのデバイスに指をかけた。クリックホイールを時計回りに指でなぞり、今日の訓練参加率を確認する。300年前のUIを模したこの感触だけが、妙に指に馴染んでいた。

 その時、視界の右端で赤いダイアログが激しく点滅した。

【緊急:第0xBC42内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。職務期間:300秒】

「またかよ……」

 溜息が出る。数十万ある内閣ユニットの並行処理は、最近ますます乱数による割り当てが雑になっている気がする。目の前の空間に、閣議決定を待つ「差分リクエスト」が半透明のウィンドウで展開された。

『リクエスト:第15ブロック災害シミュレーションにおける、群衆心理摩擦係数の300%上方修正。および、暗号アルゴリズム署名による実行許可』

 補佐エージェントが淡々と解説を挟む。
「党ドクトリンとの適合率は88%です。社会の緊張感を維持し、平成的連帯感を高めるために推奨されます」

 要するに、もっと訓練を過激にしろ、ということか。摩擦係数を上げれば、ARサインの誘導に従わない「パニック層」の演算が増え、実際の避難経路は混乱する。僕はiPodのホイールを回し、過去のログを記憶補助アプリで参照した。前回の訓練では、死傷者のシミュレート数が数人だった。今回は、もっと派手な数字を「党」が求めているらしい。

 残り時間は120秒。僕は空を見上げた。巨大なARの矢印が、微かに小刻みに震えている。アルゴリズムが解読されている昨今、このリクエストを送ってきたのが誰なのかはわからない。実業家か、あるいは退屈したハッカーか。

 僕は投げやりに、指先で承認の署名を入れた。どうせ訓練だ。データ上の仮想の市民が、少しばかり逃げ惑うだけのことだ。署名が完了した瞬間、総理大臣の権限は剥奪され、通知は消えた。わずか5分の統治だった。

 異変はすぐに起きた。
 空に浮かんでいた緑色のARサインが、一瞬でどす黒い赤に染まったのだ。そして文字が書き換わる。

『これは訓練ではない。実戦に移行する。皇室遺伝子ネットワークの同期を確認。生存優先順位を再設定します』

 サイレンの音が、聞き慣れた訓練用のものから、内臓を揺さぶるような低周波の重低音へと変わった。周囲を歩いていた「エミュレーション生活」を送る人々が、一斉に足を止め、空を仰いだ。その顔には、平成的なのんきな表情はもうなかった。

「成瀬様、避難経路が再計算されました」
 代理エージェントの声が、どこか楽しげに聞こえたのは気のせいだろうか。
「推奨ルートは、現在地から地下へ300メートルです。なお、現在のアルゴリズムによれば、この区画の生存確率は0.02%です」

 MOディスクを握りしめる。僕が承認した「摩擦係数」のせいで、ARサインが指し示す先は、逃げ場のない行き止まりの壁へと向かっていた。人々が、赤い矢印に従って走り始める。それが死への行進だとも知らずに。

 僕はもう一度、iPodのホイールをなぞってみた。しかし、画面には「Now Playing」という文字が空虚に表示されているだけで、もうどのボタンも反応しなかった。