640MBの祈り、16時20分の閣議

──平成0x29A年11月30日 16:20

 視界の右端に浮かぶ時刻表示が16時20分を告げると同時に、手元のドライブが情けない機械音を吐き出した。
「またリードエラーかよ」
 俺は舌打ちをして、イジェクトボタンを押し込む。吐き出されたのは、半透明のシェルに包まれた640MBのMOディスクだ。このライブハウス「GARAGE-29A」では、照明の制御データもSE(効果音)も、未だにこいつで管理されている。平成初期の規格を頑なに守るのが、この第9文化ブロックの「粋」らしいが、現場にとってはただの苦行だ。

「電圧、不安定。ベースのアンプ、ノイズひどいデス」
 ステージから降りてきた長身の男、ラジーブが不満げに言った。耳に装着した自動翻訳イヤホンが、彼の中央アジア訛りの言葉を無機質な日本語に変換して俺の鼓膜に届ける。彼のバンドは地域の出稼ぎ労働者たちで組んだパンクバンドだ。
 壁の計器を見る。省電力マイクログリッドのインジケーターが、危険域を示す赤色で明滅していた。夕方の電力ピークタイム。近隣の居住ブロックが夕飯の支度でIHヒーターを一斉に使い始めたせいで、末端の娯楽施設であるウチへの供給が絞られているのだ。

『あーあ、これじゃリハになんねえな』
 脳内で声がした。俺の視界の端に、半透明のウィンドウが開く。タバコを吹かす男のアイコン。エージェントのケンジだ。5年前にこのステージで急性心不全を起こして倒れ、そのまま逝った俺のバンドの元相方。
「黙ってろケンジ。今、予備電源への切り替えを……」
 俺が操作盤に手を伸ばそうとした瞬間、視界が強烈な「赤」に染まった。

《警告:貴殿は現在、第492817並列内閣・内閣総理大臣に選出されました》
《任期:残り04分58秒》

 思考する暇もなく、目の前に政策変更リクエストのホログラムが展開される。よりによって、こんな忙しい時に。
 案件番号:Hex-3A9F。
 概要:『第9文化ブロックにおける小規模遊興施設への電力供給優先度の動的変更申請』。
 内容はシンプルだ。居住区の余剰電力を、夕方の数時間だけ文化施設へ優先的にバイパスするというもの。申請者は、近所の商店街組合。

『おい蓮、これ通せよ。通さないと今日のライブ、中止になるぞ』
 ケンジが脳内で煽る。
「でも、これを承認すると居住区の電圧が下がる。生活インフラ優先が党のドクトリンだろ」
 俺は手元のスマホを取り出した。画面には、ガラケー時代を模したiモード風のテキストサイトが表示されている。今日のイベントの告知ページだ。「キリ番ゲットでドリンク一杯無料!」の文字がチープに点滅している。BBSには、「今日のライブ楽しみにしてます」「仕事早退して向かう」という書き込みが並んでいた。

『ドクトリンが何だ。音楽は不要不急か? ここに書き込んでる連中にとって、ここは酸素みたいなもんだろ』
 ケンジの言葉が、かつて彼がベースを弾いていた時の重低音のように響く。
 自動翻訳イヤホン越しに、ラジーブが仲間と母国語で何かを叫んでいるのが聞こえた。彼らにとっても、ここは異国の労働の日々を忘れられる唯一の場所だ。

 残り時間1分。
 俺は溜息をつき、空中に浮かぶ「承認」のボタンを睨んだ。党のアルゴリズムがどう判断するかは知らない。だが、少なくとも俺が総理であるこの5分間だけは、俺がルールだ。
「……責任取れよ、元ベーシスト」
 俺は指先で、暗号化された署名キーを「承認」枠に叩き込んだ。

 承認プロトコルが走ると同時に、視界の総理権限ウィンドウが消滅する。
 直後、店内の空調の音が一段階大きくなった。マイクログリッドのインジケーターが、赤から安定を示す緑へと変わる。
 俺は震える手でもう一度、MOディスクをドライブに差し込んだ。
 ウィーン、カシャ、という小気味よい駆動音。読み込みランプが点灯し、ミキサー卓に波形データが表示される。

「電圧、戻った! サンキュ、店長!」
 ラジーブが親指を立てる。俺は無言でサムズアップを返し、フェーダーを上げた。
 スピーカーから爆音のリハーサル音が溢れ出す。それは世界の歪みに対する、ささやかな抵抗の産声のようだった。