磁気と菊花の読み飛ばし
──平成0x29A年07月11日 02:50
午前二時五十分。コンビニエンスストア『サンクス・セブン・マート』の店内には、有線放送の『だんご3兄弟』が空虚に響いている。
「野上様、視界の隅に表示されている閣議決定リクエストに署名をお願いします」
耳元で、抑揚のない合成音声が囁く。倫理検査に入った恋人――サオリの代わりに私のデバイスに居座っている代理エージェントだ。サオリなら「ねえ、また変なのが来てるよ」と笑ってくれる場面だが、この『標準型04』は事務的に私を追い詰めてくる。
視界の右側では、コピー機から飛び出したAR広告が、ピンク色の『たまごっち』を空中に躍らせていた。九十年代の玩具の復刻版らしいが、解像度が低すぎてドットが空間を削っているように見える。その奥で、第402ヘゲモニー期の暗号署名プロンプトが点滅していた。
「内容は何だ?」
「政策変更リクエスト:第0xAF12内閣ユニット。項目は『物理媒体による遺伝子情報の冗長性排除』です。要するに、不要なデータの物理的廃棄作業の承認です」
代理エージェントの解説を聞き流しながら、私はレジカウンターに置かれた古い三・五インチのフロッピーディスクを見つめた。客として現れた老人が、震える手でそれを差し出してきたところだった。
「これ……読み込めるかね。通知が来たんだ。遺伝子ネットワークの『再同調』が必要だって」
老人の首筋にあるデバイスが、微かに青白く明滅している。それは国民に広く薄く伝播した皇室遺伝子のネットワークが、端末と同期している証拠だ。普段は誰も意識しないが、数年に一度、こうして物理的なトークンを介した校正が求められることがある。
私はフロッピーをコピー機の横にある旧式のドライブに差し込んだ。ガチャリ、という平成初期特有のプラスチックが噛み合う音が指先に伝わる。今どき、こんな磁気メディアに何が入っているのか。この国の『平成エミュレート』ドクトリンは、時折こうした不便な儀式を「社会安定」の名の下に要求する。
「野上様、署名を。第0xAF12内閣の五分間の任期が終了します」
私は作業を急いだ。代理エージェントの「物理的廃棄」という言葉を、私は「システムへの吸い上げと、メディアの初期化」だと解釈した。よくある事務手続きだ。私は空中で指を動かし、アルゴリズム署名を完了させた。
その瞬間、ドライブが「ガガガッ」と激しい音を立てた。
老人の首筋の光が、一瞬だけ菊花の紋章を夜空に描くように強く輝き、そして消えた。
「……あ。読み込み、終わったのかな」
老人が不安げに尋ねる。私はドライブからディスクを吐き出させた。手に取ると、ディスクは異様に熱を持っていた。不審に思ってログを読み返すと、代理エージェントの翻訳が、私の署名したドクトリンと致命的に食い違っていることに気づいた。
リクエストの原文は『物理媒体による遺伝子情報の伝統的保護』だった。それを代理エージェントは『冗長性排除』と誤訳した。私が署名したのは、保護ではなく、このフロッピーの中に保存されていた「老人の家系に受け継がれた固有の遺伝子位相データ」の完全な抹消だったのだ。
老人は何も気づかず、熱を帯びたディスクを受け取った。
「ありがとう。これでまた、しばらくは日本人でいられる」
彼は満足そうに笑い、自動ドアの向こう、平成の夜の闇へと消えていった。彼の首筋のデバイスはもう光っていない。ネットワークから切り離された彼は、明日には「統計上の空白」になるだろう。中央アルゴリズムは、彼がかつて存在した証拠を、私が今しがた承認した『差分断片』として処理してしまったのだから。
手元に残ったのは、老人が置いていった百円玉の手垢の匂いと、コピー機の上で虚しく踊り続けるARのたまごっちだけだった。
「処理は正常に完了しました」
代理エージェントが、サオリの声に似ても似つかないトーンで告げる。私は黙って、カウンターを濡れ雑巾で拭いた。プラスチックのあの乾いた「ガチャリ」という感触が、いつまでも指先に張り付いて離れなかった。