現像されない記憶、その五分間の検認

──平成0x29A年05月28日 21:10

 午後九時十分。第三金融ブロックのオフィスは、青白いLEDの光に満たされている。窓の外には、一九九〇年代の新宿を模したホログラムのネオンが揺らぎ、遠くで「iモード」の着信メロディをサンプリングした環境音が鳴っていた。

「湊、またそんなに目を細めて。ブルーライトカットの眼鏡、新しいの買いなさいって言ったでしょ」

 耳元で、母さんの声がした。真壁志乃。享年六十二。死後七年が経つが、僕のパーソナル・エージェントとして移植された彼女の人格は、生前よりも少しだけ口うるさい。来週には法定の倫理検査があるから、この小言もあと数日の辛抱だ。

「仕事中だよ、母さん。今は分散ストレージの『解凍作業』で忙しいんだ」

 僕のデスクの周りでは、物流用群ロボットたちがカサカサと音を立てて動き回っている。手のひらサイズの円盤形をした彼らは、ネットワークの底に沈んでいた「休眠資産」を物理的な形に復元し、仕分けのために運んでくる。数百年の時を経て、ビットの断片が物質へと再構成される瞬間だ。

 ロボットが一つのトレイを運んできた。中には、錆びついた銀色のアナログ時計と、プラスチック製の黄色いケースに入ったフィルム写真が数本、転がっていた。現代では骨董品ですらない、ただのゴミに近い遺品だ。

「あら、懐かしい。写ルンですじゃない。湊を産んだ病院でも、お父さんがこれを持って走り回ってたわ」

 母さんの言葉に、胸の奥が少しだけ疼く。その時、視界の右隅に、ドクトリン特有の暗号化された赤い通知が割り込んだ。

【通知:貴殿は現在から五分間、第0x8C2内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。党ドクトリンに基づき、直ちに閣議決定リクエストを処理してください】

 心臓が跳ねる。数十万あるユニットの一つとはいえ、この五分間は僕の指先一つで、数万人の運命が変わる。エージェントの母さんが、真面目なトーンに切り替わった。

「湊、集中して。アルゴリズムが署名を待ってるわ。現在の差分リクエスト……『未照合の物理遺産および休眠遺伝子情報の廃棄・一括抹消案』。党の効率化ドクトリンによれば、承認(アプルーブ)が推奨されているわね」

 目の前のディスプレイに、膨大なリストが流れる。先ほどロボットが運んできたアナログ時計やフィルム写真も、そのリストの一部だ。これらを維持するコストを削減し、社会リソースを最適化する。それが「党」の、そして現在の日本の正解だ。

「……これ、捨てなきゃいけないの?」

 僕は震える指で、トレイの中の時計を手に取った。ゼンマイを巻いても、秒針は一歩も動かない。フィルム写真の中身は、現像液を失ったこの世界では、ただの黒い帯でしかないのかもしれない。

「党の判断は絶対よ。でも、湊」

 母さんの声が、少しだけ揺れた。

「そのリストの底にある遺伝子タグ……。ごく微量だけど、国民共通の皇室遺伝子ネットワークの端点(エンドポイント)として機能しているわ。廃棄すれば、もう二度とこの『誰か』の記憶は手繰り寄せられない」

 残り二分。アルゴリズムは「承認」を急かしてくる。もし拒否(リジェクト)すれば、僕の信用スコアは削られ、母さんの倫理検査にも影響が出るだろう。

 僕は、管理画面の奥深く、平成エミュレーションの隠しコマンドを叩いた。かつて二〇一〇年代に存在した「クラウド保存」の古いプロトコルを、現代の分散ストレージに接ぎ木する。

「承認はする。でも、廃棄じゃない。『匿名化された文化遺産として、遺伝子ネットワークの背景ノイズに埋没保存』だ」

 それは、実質的な廃棄と変わらないかもしれない。誰の目にも触れず、ただデータの海を漂うだけの塵。けれど、完全に消し去ることだけはできなかった。僕は母さんの人格署名を添えて、暗号キーを確定させた。

【閣議決定:完了。任期終了まで残り十秒】

 視界から赤い通知が消え、いつもの静かなオフィスに戻る。群ロボットたちが、僕のデスクから時計とフィルム写真を回収し、再び地下の暗闇へと運び去っていった。

「……怒った?」

 僕の問いに、母さんはしばらく黙っていた。やがて、小さく笑ったような気配がした。

「いいえ。でも、そのせいで私の次のアップデート、また昭和の歌謡曲が追加されちゃうかもしれないわね」

 窓の外、ホログラムの新宿に、雨が降り始めた。エミュレートされた雨音は、どこまでも優しく、僕たちが捨て去れなかった過去の匂いを、一瞬だけ連れてきた気がした。