霜柱の露光、署名の溶ける朝

──平成0x29A年02月17日 07:20

二月の朝七時、ビニールハウスの中はもう温かい。

私は土の上にしゃがみ込み、水菜の根元に指を差し入れた。霜は降りていない。ハウスの内側にびっしり結露が張り付いて、外の公共ARサインが滲んで見える。「第22農業ブロック 第七圃場 本日の出荷予定品目は——」。いつもの蛍光グリーンの文字が水滴越しに揺れて、まるで溺れているみたいだった。

ポケットのガラケーが震えた。

折り畳みを開くと、小さな液晶に文字列が並んでいる。政策変更リクエスト第〇四一七二号、有機圃場区画における土壌改良剤の承認基準改定——差分断片の概要が、あの二インチの画面にぎゅうぎゅうに押し込まれていた。スクロールが追いつかない。

「読まんでいい。署名が通らん」

耳の奥で母さんが言った。

正確には、母さんの人格を移植されたエージェント。享年五十一。三年前、ハウスの支柱が倒れた日に。

「どういうこと」

「アルゴリズムが弾いとる。昨日の夜中にまたドクトリンの鍵が割れたらしいよ。署名検証のハッシュが公開掲示板に貼られとった」

母さんは農家ではなかった。農協の事務をやっていて、書類と数字に妙に強かった。死んでからのほうが饒舌になった気がする。

私はガラケーを閉じて、腰のポーチからフィルムカメラを取り出した。ニコンの、父が使っていたやつ。毎朝、苗の成長記録をこれで撮る。デジタルのログは自動で残るけれど、銀塩のほうが信用できると父は言っていた。父は母より先に死んで、エージェントにはならなかった。選ばなかったのだ、母を。母は少し怒っていた。

シャッターを切る。巻き上げレバーの、あの硬い感触が指に残る。フィルムはあと九枚。

「署名が通らないなら、今日の出荷承認はどうなるの」

「手動で降ろすしかないね。誰かが内閣ユニットに入ったときに」

五分間の総理大臣。あの籤に当たれば、承認ボタンひとつで済む。だが当たらなければ、水菜は出荷できないまま萎れていく。

ビニールを捲って外に出た。冷気が頬を刺す。畝と畝の間の通路を歩くと、足元の霜柱がぱきぱきと崩れた。靴底から伝わる、あの脆い抵抗。

公共ARサインが視界の左端で点滅した。今度は蛍光グリーンではなく、淡い菊紋の透かし模様。遺伝子ネットワークからの定期通知だった。

『皇室遺伝子適合率の定期更新通知:貴方の寄与率は0.00037%です。前回比+0.00001%。』

私は立ち止まりもせず、通知を視線で閉じた。毎季届くこれを気にしている人間を見たことがない。

ガラケーがまた震えた。開くと、署名アルゴリズムの公開鍵がもうひとつ、匿名掲示板に晒されていた。母さんが読み上げてくれなくても、二インチの画面で十分わかる。十六進数の羅列。これがドクトリンの骨格だと思うと、妙に薄い。霜柱みたいに、踏めば崩れる。

「ねえ母さん、これ全部割れたらどうなるの」

「さあ。たぶん何も変わらんよ。みんな朝起きて、水菜を採って、出荷する」

「署名なしで?」

「署名なんか関係なく、腹は減るでしょう」

そうかもしれない。私はカメラを構え、畑の向こうに広がる霜の原を撮った。巻き上げレバーを回す。あと八枚。

フィルムが尽きたら現像に出す。現像所のおじさんはいつも三日かかると言う。三日後には霜は溶けている。写真だけが、あの朝の脆さを閉じ込めている。

靴底に、まだ霜柱の感触が残っていた。