静止軌道上の現像液
──平成0x29A年02月05日 00:50
午前一時を回った管制室は、しんと静まり返っていた。巨大なガラスの向こう、広大なターミナルフロアでは、数百体の群ロボットたちが光の川となって流れている。俺の仕事は、この川が淀まないよう見守るだけだ。
モニターに映るドット絵風のUIが、全ユニットの正常稼働を緑色のピクセルで示している。耳元のインプラントから、代理エージェントの合成音声が響いた。
『全セクター、トラフィック正常。規定ルート維持率、99.8パーセント』
「了解」
妻の美咲がここにいた頃は、もっと賑やかだった。彼女の声は、無機質なデータ報告の合間に、他愛ない冗談を挟んでくれたものだ。法定倫理検査なんて、面倒なだけだ。
不意に、けたたましいアラートが鳴った。フロアの一角、セクターガンマの光の川が、堰き止められたように動きを止めている。
『警告。セクターガンマにて、群ロボットが合意形成待機状態に移行』
モニターには赤い文字が点滅していた。『第0x8C3A4内閣ユニットによる政策差分断片#F900B7、署名待機中』。
またか。舌打ちが漏れる。どこかの誰かが五分間の総理大臣として、交通プロトコルの変更リクエストを放置しているらしい。党ドケートだか何だか知らないが、末端の現場はいつもこれだ。
停止したロボットたちは、まるでフリーズしたゲームのキャラクターみたいだった。角ばったフォルムが、古いファミコンカセットを彷彿とさせる。皮肉なことに、あいつらが運んでいるコンテナの一つには、本物のカセットが入っているはずだ。いや、カセットの形をした、旧世代システムの物理キーだったか。とにかく、これが遅れると別の区画で面倒が起きる。
俺は苛立ち紛れに、私用のガラケー型端末を取り出した。ブックマークしてある配送追跡サイトを開く。入力するのは、一つの荷物のID。数週間前に、写真屋に出したフィルムの現像袋だ。美咲が最後に使っていたカメラに入っていたやつ。
画面に表示された位置情報ビーコンは、無情にも、停止したセクターガンマのど真ん中を指していた。
『手動介入を要請しますか?』代理エージェントが問う。
「無駄だろ。ドクトリンのロックは外せない」
『肯定。閣議決定後の署名伝播を待つことを推奨します』
わかってる。俺はただ、光の点でしかないビーコンを眺めた。あの薄い紙袋の中に、何が写っているんだろう。忘れてしまった美咲の笑顔が、そこにあるんだろうか。
時間が経つ。一分が永遠のように長い。この国の意思決定は、いつもこうだ。無数の誰かが処理し、無数の誰かが署名する。だが、その鎖の一つが切れるだけで、すべてが止まる。
諦めてコーヒーでも淹れようかと席を立った、その時だった。
アラートが止み、ロボットたちが一斉に再起動した。光の川が、再び滑らかに流れ始める。まるで何もなかったかのように。
『第0x8C3A4内閣ユニット、政策差分断片#F900B7承認。ドクトリン署名完了。業務を再開します』
端末のビーコンも、ゆっくりと動き出していた。仕分けレーンへと向かっていく。安堵のため息をつき、俺は管制卓のログを何気なく開いた。
承認者のIDは、いつものように意味のないランダムな文字列。だが、その下に表示されていた署名アルゴリズムの生成キーに、俺は目を奪われた。
素数と数列を組み合わせた、複雑なパターン。しかし、その構成には見覚えがあった。生前の美咲が、グラフィックデザインのデータを作るときに好んで使っていた、彼女だけの数列のクセ。黄金比を少しだけ崩した、独特のリズム。
まさか。
世界に散らばった無数の内閣ユニット。そのどこかで、誰かのエージェントとして稼働している人格の中に、美咲の断片が紛れ込んでいた……?
ありえない。ただの偶然だ。そう頭ではわかっている。でも、流れ出したロボットたちの赤いテールランプの群れが、まるで意思を持って、俺の現像袋を未来へ運んでいるように見えた。システムの向こう側で、君がまだ、何かを描き続けているような気がしてならなかった。